吉原写真館は、1870年頃、内科医だった吉原秀齋が、新発田藩三条寺町にて写真を撮りはじめたところに遡ります。その後、北蒲原郡新発田町西ヶ輪(現在地)に移籍。屋号を「吉原写真館」としました。現在も、肖像写真、家族写真の専門店として続いております。

「街角こんぱす」連載から
「街角こんぱす」連載から
Yoshihara Stuido

風の旅人で特集されました。

Yoshihara Stuido

Photo Gallery 空蓮房

2012年

10月

06日

街角こんぱす連載

新潟県新発田市を中心に、37000部発行しているフリーペーパー街角こんぱす」の連載の

アーカイブです。

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vol33_はまゆう丸 NG3-19040
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vol32_加治川の桜、その前で
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写真家・平間至インタビュー
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2011年

8月

29日

写真の町シバタ・プロジェクト

 

 

家族とは何か?、町とは何か?、歴史とは何か? そして、未来へ残すものは何か?

新発田には、このプロジェクトには、未来につながるヒントが数多く隠されている。

SPIRL LIFE 吉原家の140年

6年前、土蔵に眠っていた家族の乾板を透過原稿スキャナーにのせなければ、現在の自分の新発田での活動ないだろう、もちろん吉原写真館もなくなっていた。1000枚の乾板の内、50枚を厳選し、撮影された場所である写真館内に展示いたします。


写真展:吉原家の140年
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吉原写真館、写真関係、町活性化関係の記事
ここ5年の資料から、今回のイベントに関係する記事のアーカイブ
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新発田の記憶

心に残る逸品とコメントを展示するイベントの写真篇。巨匠・細江英公氏が新発田に来るのならば、町を盛り上げて歓迎しようと有志で企画した。手伝いたいという仲間、参加店、そして魅力的な写真が次々と持ち込まれ、やりきれない分は来年と、すでに次の計画が進んでいるほど。持ち込まれた写真は全て美しくリアリティに輝いている。歴史の深い町だから、その内容は実に充実しているというより驚きや歴史的発見も多い。写真を見るために町を回遊し、新発田の魅力を楽しんで欲しい。

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新潟日報連載_想い出写真手帳_吉原写真館編
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新潟日報連載_想い出写真手帳_サンチャン写真館編
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細江英公人間写真展『気骨』

2010年の文化功労者受賞者の細江英公氏の写真展が新発田で行われることに決定した。展示内容は、気骨あふれる明治生まれの財界人の肖像写真のビンテージパネル。展覧会タイトルは『気骨』。ご本人の講演会も、924日に決まっている。過去の作品、三島由紀夫の裸体写真集「薔薇刑」、秋田の農村を舞台に舞踊家の土方巽をモデルにした「鎌鼬」をスライドを使って話されるという。大変に楽しみにしている。

細江英公フライヤー
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細江英公氏_最近の関連記事
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2011年

1月

06日

写真の中の旧校舎

八軒町_斉藤家の倉庫
八軒町_斉藤家の倉庫

昨年、2010年10月の丹後寛一郎の“宝物”乾板を発見した斉藤家、八軒町裏279番地。江戸時代は武士の住む地区だった。さぞかし多くのお宝があると思ったので、その旨主人に尋ねると、すでに骨董品屋が出入りしているから良い物はないですよとの事。しかし、貴重な乾板が見つかっている。骨董品屋が、丹後寛一郎の宝物には興味を示さなかったことは、私には幸運だった。そして、乾板の他にもう一点、私は、素敵な宝物に出会った。新発田中学校校舎の”ぼろぼろのパノラマ写真”だ。冒頭の写真は、その発見の現場を撮影したものだ。

新発田中学校校舎_明治中期    撮影:丹後寛一郎
新発田中学校校舎_明治中期    撮影:丹後寛一郎

同窓会長と現新発田高等学校のお考えで、これほど貴重な写真であれば現在新築された学校内に展示しておくべきだという話になる。話の流れ上、私が修復からプリント、額装の仕事をお受けすることになる。新発田中学校は、現在ある新発田高等学校の前身で創立100年以上の伝統校だ。私もこの高校を卒業しているので発見したとき強く感じるものがあったが、これほどのお宝だったとは思いもしなかった。

 

県立新発田高等学校旧校舎_昭和37年頃 撮影:吉原俊雄
県立新発田高等学校旧校舎_昭和37年頃 撮影:吉原俊雄

母校に対する想いは深い。新発田中学校の木造の校舎が想い出になっている年代の方々もいるが、3年前に壊された旧校舎の方に新発田高等学校の想い出があるという人も多い。私自身もその口だ。新発田中学校校舎のパノラマ写真の隣に、旧新発田高校の写真を並べるべきだとう話に展開する。

 

吉原写真館と新発田高等学校とのつきあいは長い。実際、多くの写真があるのだが、パノラマ写真の横に置くべき写真というのは実に難しい注文だ。丹後寛一郎の写真が、それほど素晴らしいからだ。

 

悩んでいてもしかたがない。 写真館の土蔵に入り当てもなく探し始める。まさにその矢先、目にとまる箱があった。”学校校舎”と父の字、マジックで強く書いてある。箱を開けた。一枚目の乾板は、施工したばかりの新発田高校旧校舎の写真だった。

 

※県立新発田高等学校ホームページ

2011年

1月

05日

模型でできた城下町

この写真は、新発田市のまちづくり論議に役立てて欲しいと、東京芸術大学建築科のヨコミゾマコト研究室が制作した立体模型の新発田城だ。模型全体は、JR新発田駅から城址公園までの1.6キロ四方の中心市街地を500分の1の縮尺で再現している。

 

 

私とヨコミゾマコト氏の出会いは、1987年に原宿で行われた個展で会話したときだから24年前になる。翌1988年、青山で大規模な個展をしたときには、無理な要望にも快諾してくれ何十枚もの図面をおこしてくれた。 その後、2006年、蔵前の写真ギャラリー空蓮房を共に作り上げる。そして、2007年、父の告別式の時に、新発田まで駆けつけてくれた。父の御斎は、新発田川に面する”老舗割烹・志まや”で行われたが、ヨコミゾ氏は、その界隈に残る雰囲気に感動し新発田に強く惹きつけられたという。

 

 

 

新発田川上に立つ公設市場、その奥が 老舗割烹・志まや
新発田川上に立つ公設市場、その奥が 老舗割烹・志まや

ヨコミゾ氏は、その年から2年間、新発田リサーチプロジェクトを敢行する。1回目は新発田市街地、2回目は五十公野エリア。綿密な事前研究を元に現地調査を進めて探索MAPにまとめ、シンポジウムも開催。県外在住の視点でまとめられていて、大変にわかりやすく、また大変刺激的だった。そして、昨年(2010)年、3回目のプロジェクトとして、市街地の巨大立体模型を制作した。新発田市は現在、旧県立病院跡地利用や市役所の建て替えなど大規模な再開発が控えている。ヨコミゾ氏によれば、この立体模型を、まちづくりのツールとしてボロボロになるまで使って欲しいとのことだ。

 

県立新発田病院屋上から見た新発田市街地 2011年1月
県立新発田病院屋上から見た新発田市街地 2011年1月

この模型の前に立つと、城下町として発展した新発田の町を俯瞰で見ることができる。観光エリア、文化エリア、官庁エリア、商業エリア、住宅エリアを城下町らしさが残る旧道がつなぐ。まるで細胞のようで美しい。しかし、残念ながら中心市街地は寂れシャッター街と化している。市内に住む仲間内では、“ 新市役所の場所”によって新発田の未来が決定されるのではないかと話題の中心になっている。ヨコミゾ氏が制作した立体模型をじっくりと観察すれば、“市役所をどこにつくるべきか”の答えは自然に浮かび上がって来るように思える。 


※新発田市ホームページ

※神明橋からみる未来風景

2010年

12月

30日

丹後寛一郎の宝物

八軒町裏、斉藤家の倉庫
八軒町裏、斉藤家の倉庫

今年の10月(2010年)だから、つい最近の話である。二年ほど前、丹後寛一郎の乾板を持ち込んだ下町・台輪の会の小林精治氏から電話あった。同じ場所、旧町名・八間町裏の斉藤氏の家の倉庫で、新たに大量の乾板が見つかったというのだ。 小さい町の良いところは、濃密な出会いが、歩ける範囲で起こる。小林氏の家から、写真館まで、歩いて5分。そして、丹後寛一郎の乾板が発見された斉藤家まで、歩いて10分。

丹後写真館全景(山田たか子氏蔵)明治中期
丹後写真館全景(山田たか子氏蔵)明治中期

吉原写真館が、新発田で最初の写真館だったと思われる方が多いがそうではない。丹後寛一郎の経営する丹後写真館が、新発田で一番古い写真館で、諏訪神社の斜め向かいにあったと聞いている。この辺は現在、道路になっているが、元々は、大倉喜八郎の土地だった。丹後寛一郎の乾板に、若き日の喜八郎の写真があることから、かなり親しい関係であったことが想像できる。新発田市史によると、丹後寛一郎は、弘化四年(1847年)に新発田で生まれた。進取の気性の持ち主で、若いころから写真の開祖と言われる下岡蓮杖がいる横浜に出向いて写真術を覚えたという。その後、新発田に帰郷、新発田城を始め、新発田で活躍した人々を次々撮影する。

 

新発田の群像、丹後寛一郎撮影の乾板
新発田の群像、丹後寛一郎撮影の乾板

冒頭の写真は、斉藤家の倉庫で発見された乾板を撮影したものだ。軽く見積もっても、200枚以上あるだろう。

 

小林精治氏の話によると、丹後寛一郎は、大正十年八月七日 八軒町裏279番地、つまり、斉藤家にて死去している。(満七十四歳)明治初期に、丹後写真館を開業するが、跡継ぎに恵まれず、明治後期に閉鎖。その後は、嫁の実家である八軒町裏で隠居生活をした。丹後写真館が閉じるとき、嫁の実家にもかかわらず、大量の乾板を持ち込んだのは、丹後寛一郎にとっては捨てることができない、とてつもなく大事な宝物だったのだろう。

 

乾板に浮かぶ文化都市新発田の面影

2010年

12月

28日

燕尾服を着た謎の人物

5年程前、土蔵に眠っていた数多くのアルバムと乾板を夢中で整理していた。自分の家にあるアルバムの写真なのだから写っているのは、肉親だと思われるが、誰なのかわからない方が多い。100年分以上のアルバム。私は、その半分も生きていないわけだから当然でもある。この写真、燕尾服の人物も、写真の下に「本家」とだけ記されているだけである。風体から、ただ者ではないと思い興味を持ち、父や母、何人かの親戚に尋ねたが、誰なのかわからなかった。

 

それから2年後、私と同じようにルーツ探しに興味を持つ叔父・金弥と、吉原家本家のある中之島への旅に出かけた。菩提寺のある専正寺に立ち寄る。吉原家の子孫は、今は中之島には住んでいないこと、子孫の1人は新潟に住んでいたが、たまに墓の隣の畑を耕しに来ることなどの話を聞く。写真館の初代・秀齋と本家の関係を知りたかったので、過去帳の閲覧を頼んだが100年以上前なので、すぐには難しそうだった。

 


 

中之島図書館の、地元を紹介するコーナーは充実して歴史の深さを感じた。目にとまる本を手に取り次々開く。向かいで調べていた叔父の動きが、急に止まる。中之島村史を開いて、私に見せた。

 

燕尾服の謎の人物は、吉原義雄という名前だった。

 

中之島村史・下より
中之島村史・下より

2010年

12月

28日

義彦の風景画

昨年の6月(2009年)新潟県立万代島美術館の企画展に参加しているときのことだ。息子が収蔵作品のデーターベースを勝手に触って、1枚のプリントを持ってきた。”これお父さん?” 画家・吉原義彦のプロフィールと作品情報だった。”よしはら”で検索したからだろう。

 

吉原義彦は本家の親戚、治水工事に献身した義雄の長男だ。

義彦が、プロレタリア美術運動で活躍した画家で親戚であることは、中之島村史を読んで知っていたが、県のコレクションになっていることは、その時まで知らなかった。学芸員の澤田氏に、長岡の近代美術館にあることを教えて頂く。

 

義彦は東京にいるとき、落合に住んでいた。当時の落合には数多くの気鋭の文士、画家が住んでいた。そこで切磋琢磨しあっていたのだろう。しかし、義彦は、県会議員になった義雄の長男であり、後を継げば、15代目だったはずだ。どんな思いで画家を目指し故郷を出、東京に暮らしていたのだろうか? どこか自分と重なり切なくも思える。

 

数ヶ月後、義彦の絵が板橋区立美術館にもあることもわかった。それが冒頭の写真である。

 

http://www.itabashiartmuseum.jp/art/collection/ntb025.html

 


この写真は、 昭和11年4月5日、 祖父・秀長が、新しくなったスタジオで子供たちを 撮影したものだ。左から2番目が、私の父・俊雄。当時10歳。一番右が、一緒に中之島のルーツ探しをした叔父、7歳。

 

そして、壁に掛けてある額入りの絵画は、義彦のものだ。私は、この風景を、中之島大沼新田、義彦の父・義雄の改修した刈谷田川の土手を描いたのだと想像している。

 

 義彦の描いた風景画は、まだ写真館のどこかにあるはずである。子供のころに見た覚えがあるからだ。

 

中之島村史・下より
中之島村史・下より

2010年

12月

28日

本家の墓参り

いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、

撮影の理由がわかるとき、その写真は光を帯び磁場を発する。冒頭の写真、乾板の下の隅に、”昭和十一年十月六日、吉原本家” と記してある。

 

昭和10年に新発田では、大火があり吉原写真館も焼失した。

その翌年の7月、吉原写真館新築工事が始まり、10月に竣工している。当時の店主であり施主の吉原秀長は、新しい写真館の完成を先祖に報告し、また繁栄を祈るため本家の墓を訪れたのだろう。

 

5年前(2005年)、息が合う叔父と中之島の本家のルーツ探しの旅に出かけた。菩提寺である専正寺を訪れた後、若住職に、吉原家の墓の場所を教えて頂く。

 

初夏の心地良い日差し中、農道に迷い込んだ。生い茂った雑草の奥に稲穂が見える。土手を上ると、蛇行している川の風景が広がった。結局、墓を見つけられず専正寺に戻ってしまう。

 

 

 

 

 

それでは、”私がご案内しましょう”と、若住職が先導してくれ目的地・写真で見ていた本家の墓にたどり着いた。

 

 

 

それから、4年の歳月が過ぎた昨年(2009)、家族を連れて本家の墓参りにでかけた。思えば、この4年間、実に色々なことがあった。父の死、息のあった叔父の死、生まれた町に根を下ろすこと。この4年間で、一番変わったのは、自分自身かもしれない。

 

そして、一枚の写真から始まった旅は、今でも続いている。

 

 

 

※新川史眼

※大地と治水 美しい関係

※燕尾服を着た謎の人物

2010年

12月

09日

背景画のルーツ

この淡い絵画は、主に幼少期の男の子の撮影時に使うバックスクリーン(背景画)である。今では、制作業者もいなくなり大変に貴重なものになっているので修復しながら使っている。

 

吉原写真館には、20以上のバックスクリーンが残っている。

 

 

撮影サンプルをご覧ください。

 

 

 

私が美術を学ぶ学生の頃、つじつまの合わない背景画を見るたびにうんざりしていた。また、その前でポーズをとって撮影されるなんてナンセンスだとも思っていた。しかし、歳をとるにつれて、絵を背景にする肖像や家族写真の魅力がわかり、今では心から惹かれるようになった。明らかに偽物なのに、現実以上のエッセンスを想像して楽しむなんて、素晴らしい遊び心ではないか?

この背景画のルーツはどこから来たのだろうか? 最初は、日本独特の「書き割り」「見立て」「芝居」に属するものだと思ったが調べていくと、やはり西洋から伝わったようである。

 

1903年(明治36年) 三代目・吉原長平が、「次女ナルミ2歳と子守」を撮影したものだ。舞台も演技も緻密に演出されている。描かれた森、偽物の丸太、造花、二人とも実に芝居がかっている。

キャンパスに描いた背景の前に物を置いて照明、実際の光景を見るような錯覚をおこさせる見世物小屋をジオラマ館と言う。1889年(明治22)以降、東京の浅草で流行している。ジオラマ館を発明したのは、写真術を発明した人として有名なルイ・ジャック・マンデ・ダゲールである。ダゲールは、写真の研究を行う前は、パリでジオラマの背景を描く画家として活躍していた。

1839年、写真術を発明した後、自分で描いた背景画でジオラマを作り、人物を配置して撮影していたのではないかと推測する。


 

ジオラマのメソッドは写真術伝来の時に日本に入り込み、下岡蓮杖へと伝わる。元々、狩野派の絵描き、蓮杖は背景画を描くことは難しくなかっただろうし、実際、引退後背景画の仕事にしてもいる。蓮杖の弟子、江崎礼二は、浅草に写真館、ジオラマ館を作るが飽きたらず、本物の東京の光景をジオラマ化する装置、浅草12階・凌雲閣建設を推進した。

 

この写真は、KONEMANN社出版の、THE NEW HISTORY OF PHOTOGRAPHY p527 The anonymous studioという項目から参照した。他にも多くの肖像写真にページが割いてある。英語の説明には、写真スタジオが、客間等を模した背景画、造花などを配置したジオラマだったことが丁寧に書かれている。

 

母に写真館の背景画を制作した業者の名前を尋ねた。確か、”マツイ”と言ったが、10年以上前に仕事をやめてしまったと即答。また、30年以上も前に、その会社を2度程訪ねたことがあったそうだ。台東区のどこか、細い路地を抜けたところの奥に体育館のような大きなアトリエがあり、何枚もの背景画がかかっていたという。しばらくして、母が急に仕事場の戸を開けた。その会社の社長は、芸大の油絵学科卒で、画家でもあったことを思い出したという。

 

今後、写真館の背景画が傷んで使えなくなったとしたら…最後は自分自身が背景画を画くことになるのだろうか?


 

2010年

12月

07日

残存、加治川の桜

※クリックで拡大いたします。
※クリックで拡大いたします。

全国にその名を知られた「加治川の桜」。開花期には、まさに世界一の桜のトンネルが現れ、連日大勢の観桜客でにぎわった。しかし、それも今は昔。昭和41年、42年の集中豪雨によって加治川が破堤。桜が堤防を弱めたとして無惨にも伐採されてしまう。

 

写真館の玄関口の壁面には、大判サイズの「加治川の桜」が、数点掛かっている。父・俊雄が、昭和23年頃に撮影したものだ。伐採されてから40年、今でも大判写真を見つめながら加治川の桜の想い出に浸るお客さまが絶えない。加治川の桜が世界一だと言われた頃、私はまだ子供だった。桜を背景にした写真が何枚もあるので、何度となく連れて行って貰ったはずだが、覚えていない。写真を見ながら想像を膨らませるばかりである。

 

二年前の四月、地元紙・新潟日報に、「伐採を逃れて生き残った加治川の桜が、新発田市蔵光の国道290号線にひっそりと立っている」という記事が、美しい写真と共に載っていた。それを知っては、いてもたってもいられない。私は無我夢中で、その場所に向かった。 その時、撮影したのが冒頭の写真である。

 

写真館玄関口の壁面にかけてある「加治川の桜」の写真。現在でも色あせず輝きを放っている

2010年

11月

30日

吉原家のアーカイブ、そして新しい旅

このグラフィックは、吉原写真館に眠っていた乾板、フィルム、写真4500枚ほどを電子書庫化したデーターベースの検索画面である。検索キーワードに家族の名前がツリー状にセットされている。SEARCH(検索)をクリック、家族名を選び、EXCUTE(実行)すると自動的にソートされ、その人のLIFE(人生)が、時間軸上に並ぶ。吉原家140年の電子アルバムなのだ。複合検索もできるようになっているので、複数の人物が写っている写真も検索できる。

 

この吉原写真館データーベースは、乾板を発見した年の2004年に作り始めた。その後の6年間、このデーターベースの制作によって学んだこと、発見したこと、私自身の変化は計り知れない。これを作らなければ、郷土・新発田に対する興味が沸かなかっただろうし、ここにも今はいないだろう。そして、吉原写真館もなくなっていたはずだ。

 

1枚の写真を観察することから全てが始まる。名前、年代、撮影者、場所など、想像できる限りのメタ情報を加え一定の基準に従って並べかえる。その人の物語が自然と浮かび上がってくる。写真に対する興味から、その人物のいた歴史、郷土・新発田へと興味が自然と派生した。

 

吉原写真館の歴史_WEB

ナルミ_WEB

 

このデーターベース作りを始めた理由を、何度となく聞かれたことがある。”乾板に写っている写真の魅力に惹かれて整理する必要があると感じたからだ”と答えていた。しかし、実はもっと単純な話で、六代目としての自分ができるのは、そのくらいしかないと思い詰めていたからだ。新潟県の新発田という町に、五代続いた写真館があった事実くらいは伝えたいと思ったからなのだ。

 

 

 

そこから新しい旅が始まるとは、当時の自分は予測することもできなかった。私は、現在、吉原写真館の六代目として、郷土史を勉強し、町の活性化を真剣に考えている、これが私の現在の旅だ。

 

※乾板発見

 

2010年

11月

30日

早稲田大学の写真データーベース

3年ほど前、吉原写真館のホームページを公開した。

当然、多くの人に見ていただきたい。手伝ってくださったウェブ・デザイナーの友人が言うには、検索にかかるのがポイントだという。何度となく、「吉原写真館」と入力し検索をかけたが、なかなかヒットしなかった。

 

そのかわりに、興味深いウェブページを発見する。それが冒頭の早稲田大学写真データーベースだ。撮影者一覧、総数554の296番目に「新発田吉原写真館製」のキーワードがひっかかったのだ。

 

撮影者一覧へ - database.littera.waseda.ac.jp

 

さらに詳細検索テキストで、「吉原写真館」を検索する。2点の写真がヒットした。

 

http://database.littera.waseda.ac.jp/shashin/

年代から逆算すると、これを撮影したのは、祖祖父・吉原長平だろう。先代が、早稲田大学や日本の歴史に深く関わった人物を撮影しているという事実を知り深く感激した。

 

また、驚くべきは、早稲田大学のアーカイブ・システムである。

写真番号、分類、題名、撮影時期、キーワードで、検索できるようになっており簡単に目的の資料に至ることができる。また、それを一般公開して誰でも使う事ができるのにも感心した。

 

私も、写真館の土蔵にあった大量の乾板とフィルム、アルバムで、アーカイブを作り、それがいかに大事であるかを実感しているから、その価値と労力が理解できるのだ。

 

※吉原家のアーカイブ、新しい旅

2010年

11月

30日

写真術来航

この写真は、昨年(2009年)11月、下田の下岡蓮杖(しもおかれんじょう)写真記念館を訪ねた時、館のある城山公園から見下ろした下田湾を撮影したものだ。もうすぐ12月だというのに汗ばむような陽気、観光客も多く黒船を模した遊覧船が心地よさそうに運行している。

 

「太平のねむりをさます蒸気船、たった4隻で夜も眠れず」

 

これは、ペリーが軍艦4隻を率いて江戸湾に入ってきたときに作られたものだ。その後、嘉永7年3月3日に結んだ日米和親条約によって即時開港された下田湾には、4隻ではなく7隻もの軍艦が入港している。私が撮影した同じ山頂から、多くの人々が恐怖に駆られながら7隻の蒸気船を見つめていただろう。 その中に写真術を覚えるため、異人と接触する計画している下岡蓮杖もいたと推察している。

 

「毛筆の及はざるところ、ここの妙技あり。筆を折り、

刷毛を砕き呆然たるもの、数日遂に之を学ばんと決意す。」

『写真事暦』(明治24年)

 

蓮杖は狩野派の絵師だが、描写力に衝撃を受けて画家の道を断念、写真術習得に執念を燃やす。吉田松陰は、日本の未来を案じて黒船に乗ろうとしたが、蓮杖の場合は、自分を刺激するテクノロジーに強く惹かれての行動だった。

 

日本における写真の開祖、下岡蓮杖の事は以前から知っていたが江崎礼二と師弟関係だと知り、強く興味を持つようになった。なぜなら、吉原写真館の二代目・玄琳、三代目・長平、四代目・秀長は、江崎礼二に師事している。そして、五代目・俊雄は、東京写真専門学校で、江崎礼二の息子・江崎三郎に習っている。そして私は、その三郎の息子である信男氏に写真術の基礎を教えて頂いた。写真術来航から私自身まで、一本のラインがあるのだ。

 

2010年

11月

22日

城址公園の銀杏の木

子どものころの遊び場は、写真館のすぐ近くにある自衛隊の練兵所(現城址公園)だった。ここは子どもにとって、まさにワンダーランド。訓練用の山、濠、藪、櫓、この複雑な地形での”缶蹴り遊び”は、とても楽しく時間を忘れ、暗くなるまで遊んだ。また、友達が自慢げに、拾った薬莢を見せてくれたのをよく覚えている。新発田で幼少期を過ごした大杉栄も、この練兵所、つまり現在の城址公園の銀杏の木の回りを遊び場にしていた。

 

以下、大杉栄の自叙伝の抜粋である。日清戦争中の明治28年、栄が高等小学校1年の時、新発田大火があった。その体験を自叙伝で詳しく描写している。


○○○


火はまだ僕の家からは七、八町のところにあった。しかし僕はもう当然それが僕の家まで燃えて来るものと思った。

僕は家に帰ってすぐ母に荷物を出すようにと言った。近所でももうみな荷ごしらえにかかっていたのだ。「みっともないからそんなにあわてるんじゃない。」母はこう言ってなかなか応じない。

しかし火の手はだんだん近づいて来る。僕はもう一時間としないうちにきっと火がここまで来ると思った。そして母にせめては荷ごしらえでもするように迫った。「荷物は近所でみな出してしまってからでも間に合います。あんまり急いで、あとで笑われるようなことがあってはいけません。まあ、もう少しそこで見ていらっしゃい。」 母はこう言いながら、しかし女中には何か言いつけているようだった。そしてしばらくして僕を呼んだ。「もういよいよあぶないから、お前は子供をみんなつれて立ちのいておくれ。練兵場の真ん中の、あの銀杏の木のところね。あそこにじっとしているんだよ。いいかい、決してほかへは行かないようにね。」 母はふろしき包みを一つ僕に持たしてこう言った。そしてすぐの妹に一番下の弟をおんぶさした。 西ヶ輪を真っすぐに行けば、三、四町でもう練兵場の入口なのだ。練兵場にはもうぼつぼつ荷物が持ちこまれてあった。僕等は母の言いつけ通り銀杏の木の下を占領した。


○○○

 

栄が大火の時に避難した、また遊び場にしていた「銀杏の木」が、

今でも新発田市の城址公園に残っている。それが冒頭の写真である。

 

ここ数年、この銀杏の木は病気がちで、多くの新発田市民が心配そうに見つめている。緑色の葉をつけることさえしなくなった。しかし樹木医の手が入り、最近は多少持ち直したようだ。また、史実に触発された若者が、この場所で音楽祭を開いたりもしている。新発田には、まだ、栄が大事にした自由の魂が息づいている。

 

自叙伝によると大杉は、新発田で過ごした10年間に12回の引っ越しをしている。また、大火のあった明治28年は、西ヶ輪に近くに住んでいた。自叙伝から、赤い丸のあたりに住居があったと推定している。


また、明治28年の大火の時に、栄がどのようなコースで避難したかを、昭和10年の新発田大火の写真で辿ってみた。この写真にも銀杏の木が写っている。

 

*西ヶ輪

新発田城本丸の「西曲輪」がなまって町名となった藩士屋敷であったが、昭和37年の町名整理・住居表示の実施により大手町に変更された。

 


※大杉栄の写真



 

2010年

11月

17日

ロッカー製のタイムカプセル

今年の、4月の事であるが、小学校3年の息子の参観日に行った。クラスでの様子を見に行ったのだが、実は秘密の目的があった。


 

私が小学校6年生の時に絵を描いたタイムカプセルがまだ大事にしまってあると聞いたからだ。そのタイムカプセルは、1970年の大阪万博のタイムカプセルを真似て、1972年の外ヶ輪小学校80周年の記念行事で作った。その時から20年後の100周年の記念行事の時にタイムカプセルの中身を公開したという話は、かなり後になってから聞いた。私は生意気ぶってビートルズのレコードを入れたような気がするが、よく覚えていない。

 

このの写真が、みんなで作ったタイムカプセルだ。

記憶の中では、金庫のように頑丈だと思っていたのだが、今にしてみれば、小型のロッカーを元にしたもので実に貧弱なモノだった。


 

裏側には、年代と趣旨が大きく書いてある。

また、”お世話した人””絵を描いた人”も記してあった。

 

タイムカプセルを校内で探している時に、もう一つ素晴らしい感動があった。それは旧校舎の手摺りと瓦屋根の鴟尾(しび)が大事に保存されていたからだ。

 

新しい建物を建築する時、多くの場合、壊される建築物の事を忘れがちである。瓦屋根と鴟尾、そして、僕たちのタイムカプセルを残してくださった先生方々に深く感謝したい。

 

 

2010年

11月

14日

神明橋から観る未来風景

※クリックで拡大いたします。
※クリックで拡大いたします。

冒頭の写真は、神明橋・下町の風景で大正時代に撮影された。柳の下、橋の親柱に神明橋と記してある。この時代の運搬は、神明橋の下を流れる新発田川の水運と人力に頼っていた。川の近くの街道に市場がたち、人が集まった。

そして、これは昭和初期に同じ場所から撮影されている。
神明橋の親柱がコンクリート製に変わっている。
ひときわ目立つ洋風の建築物は新潟銀行支店である。商業都市として栄えた新発田には現在でも数多くの銀行の支店がある。

この商店街の風景は昭和10年の大火によって失われることになる。

昭和10年の新発田大火
昭和10年の新発田大火

焼け跡の中に新潟銀行支店が焼け残っている。

そして、現在の平成22年11月12日、同じ場所から撮影した。神明橋、新発田川、街道は、形を変えながらも残っているが、残念ながら下町商店街は寂れ、シャッター街と化している。
 
私が歴史探索を始める前は、明治、大正と聞くと、遠い昔のことのように思ってが、今では、ほんの少し前の出来事のように感じている。神明橋から下町通りを撮影した三枚の写真は100年以上の時間の隔たりがあるわけだが、風景からの変化に注目しても眼を見張るものがある。実際10年でも、世の中は随分と変わってしまった。

果たして、この先、20年、100年、この街の風景はどのように変わるのだろうか?

一つだけ確信を持って言えることがある。一度失ったものは二度ともとには戻らないということだ。未来に残すべきモノは何か? 神明橋から下町商店街を見つめながら自問自答する。

 

※模型でできた城下町

2010年

11月

09日

父の背中と秘密基地

想い出の秘密基地
想い出の秘密基地

3年前、小学校の入学式に父親としてに参加した。初々しい一年生が整列する後ろに座りながら、35年以上ぶりに外ヶ輪小学校の校歌を聴くことになった。外ヶ輪小学校の校歌は妙に高音が耳に残る。そのサウンドが記憶を刺激し、とりとめのないイメージが次々と現れる。式のあった小学校は自分がいたころの木造とは全く違うモダンな建築物へと変わったが、校章、歌、場所が同じため不思議な気分に陥った。

一人、会場を出て探索を始める。もしかすると先生に呼び止められるのではないかとか考えながら恐る恐るグランドに向かう。錆が目立つ派手な色のブランコと遊具が、強引にロープで縛り付けられてある。”きけん”の表示。その先にあるコンクリートの遊具のようなモノが気になって近づく。瞬間目を疑った。子どものころの遊び場であったコンクリートの秘密基地だったからだ。入学式に参加している妻にカメラを預けて来たことを後悔した。

そして、この写真は、昭和22年、亡き父・俊雄が22歳の時に撮影したものだ。父のアルバムから見つけ出した。秘密基地の上で帽子を振っているのは昭和天皇、ご巡幸である。人前にでるのが苦手と自負する父は、”カメラがあれば怖くない、天皇陛下だって撮ったんだ”と言ってのを覚えているが、それがこの写真だろう。の壁面が墨で乱暴に塗りたくられているのは、空襲を避けるための迷彩なのだそうだ。何度となく色々な先生から聞いたのでよく覚えている。


発見の感動から恥ずかしながら3年後の昨日、ついに秘密基地をカメラに収めた。 まだそこにある事に感謝しながら。 それが冒頭の写真である。

しばらくして、その秘密基地がなんのために作れたのか、なんという呼び名なのかを無性に知りたくなり、新発田市史、郷土史などのページを次々とめくった。

2年ほど前に出版された郷土出版社の”ふるさと新発田”に、ご巡幸の写真を発見、説明書きを貪るように読む。秘密基地は、遊具ではなく国旗掲揚のための台であることを知る。納得しながら写真を観ていると一瞬戦慄が走った。

何故なら、昭和天皇を撮影しているカメラマンは、当時22歳の父・俊雄だったからだ。

 

※ 次の日、この写真を撮影したのは、新発田市内で同業を営むサンチャン写真館の高橋さんの父であることがわかる。早速、ブログで使わせていただくことを快諾していただいた。さらにこの国旗台を、新発田の宝として残すために壊さずに残す運動を共にすることを約束する。高橋さんも同じ小学校を卒業していたからだ。

2010年

9月

11日

一番高いビルで撮影された家族写真

※クリックで拡大いたします。
※クリックで拡大いたします。

旅が好きだ。新しい街に行くと、最初に高いビルや塔に登る。その街の構造が俯瞰で見えるからだ。シカゴならシアーズタワー、パリならばエッフェル塔、バチカンではサンピエドロ宮殿、
そしてニューヨークならばエンパイア・ステート・ビルディング、ここは何度となく訪れた。
 
この写真は、今年の2月、ニューヨークに家族で行ったとき、エンパイア・ステート・ビルディングの最上階102階からマンハッタンの南を撮影したものだ。自然と自分が徘徊していたブルックリン、SOHOの方向に眼が行ってしまう。ニューヨーク・シティ湾中央に浮かぶ自由の女神を探し、そして南端に ワールドトレードセンターがないことを再確認し溜め息をつく。
 
ここ数年、ニューヨークを訪れる観光客は倍増したらしいが、朝早く行ったにも関わらず長蛇の列。その上、凄惨な事件から9年もたつのに、飛行機の搭乗手続き並みのセキュリティーだからなおさらだ。シーズンオフの極寒の2月だというのに家族連れが多い。英語の他、スペイン語、フランス語、韓国語、日本語が聴こえてくる。ぼんやりと進んでいると突然、摩天楼の写真を背景にしたステージのようなところへ急に出た。早口の英語で、中央に行ってポーズをとるようにせき立てられる。フラッシュが閃光する。時差ボケせいか反応が鈍く、言われるまま撮影に応じてしまう。 これは、撮影してから短時間の間にプリントして売りつけてくる新種の写真ビジネスなのだ。家族全員が写っているので、それはそれで貴重だ。しかし30ドルと言われ、少し躊躇し購入を迷っていると、妻の”押し売りの家族写真は必要ないわ!”その一言で目が覚め、丁寧に断った。

その販売員は簡単に了解し、次のお客に売り込む準備を既に始めている。私がその写真がどうなるのか気になり眼で追う。まるでプロのバスケット選手のフェイクパスのように、その家族写真を簡単にゴミ箱に投げ捨ててしまった。そんなに簡単に捨てないで!と心の中で思わず叫んでしまう。

これは1982年の28年前、私が留学していた時に、ワールドトレードセンターの最上階から撮影した写真である。この時点では、ここのビルが、ニューヨークで一番高いビルだった。遠くにエンパイア・ステート・ビルディングが浮かび上がっている。

2010年

8月

31日

スラント式の北窓

吉原秀長、スラント式窓工事にて   昭和11年
吉原秀長、スラント式窓工事にて  昭和11年

昭和10年、新発田町の3分の1を焼き尽くす大火があり、吉原写真館も土蔵を残し焼失した。翌11年には街の至る所で新築工事が始まる。

この写真は、写真館スタジオの棟上げ式が無事にすんだ直後に撮影されたものと思われる。中央、スラント式窓枠に乗ってこちらを見ているのは、私が18歳の時に亡くなった祖父・秀長、そして屋根の上にはた大工が12名。

現在はストロボ光がメインになったが、昔は自然光を使うしか方法がなかった。祖父の立っている傾斜式窓枠は、スタジオに安定した照度が得られるように大きく設計されている。画家のアトリエと同じように北側窓で安定した自然光が降り注ぐ。


吉原写真館のスタジオには、このスラント式窓がそのまま残っていて自然光の撮影、ミックス光撮影に活躍している。しかし良い事ばかりではなく、昔ながらの作り3mmガラス1枚なので、保温性が悪く、夏暑く、冬寒い環境、お客様から、”もう少し暖かくならないのか?” ”涼しくならないのか”と何度となく問われ、冷房、暖房を強めたりしたが、なかなか効果が上がらず困っていた。その上、7月頃の強風で、ガラスの一部が破損し、雨が漏ってくる始末。

スラント式窓の修復工事  2010年夏
スラント式窓の修復工事  2010年夏

そこで今年の夏、思いきってこの大型の傾斜窓の修復工事を行うことにした。最初、サッシ屋に見積もりを出して貰ったが、思いの外お金がかかることがわかり断念。昔からの友人の建築家・ヨコミゾマコト氏に相談を持ちかけた。コーキングに頼らない水じまい、空気断熱の有効な方法を詳しく教えて頂いた。そのアイディアを元に、外側はガラス、15mmの間を開けて室内側にツインカーボを張る工事を懇意な大工にお願いし、無事完成することができた。

スタジオは天井が高く広いので、冷暖房に時間がかかるのは同じだが、それでもかなり効率がよくなったはずだ。

これからはご予約頂ければ、1時間前には、冷暖房のスイッチを入れ、快適なスタジオでお客様をお迎えいたします。_(._.)_

2009年

10月

06日

義民・与茂七の書

水上勉の書、与茂七
水上勉の書、与茂七

正徳三年(1713)、義民・大竹与茂七は無実の罪を着せられて新発田の郊外で処刑された。与茂七は、関係者を呪う恨みの言葉を残したという。その後、この件に関係した役人たちは次々と気がふれて狂い死にし、続いて新発田の街の大半が焼けるという大火事にみまわれた。

新発田大火   昭和10年
新発田大火 昭和10年

人々は、これは与茂七の祟りであるに違いないと言いだし、この火事を「与茂七火事」と呼ぶようになった。1935年(昭和10年) 9月13日にも、新発田町の3分の1を焼き尽くす大火があったが、その時も与茂七の恨みではないかと噂がたったと言う。

私は、新発田大火の写真を整理しているときに、「与茂七火事」の言い伝えを知ったのだが、印象的なので、心に強く残っている。諏訪神社の五十志霊神に頭を下げるようになったのは、その史実を知ってからである。

 

※新発田の諏訪神社境内に「五十志霊神」という名の社を建てて与茂七の霊を慰めている。これは、新発田藩が、与茂七が無実の罪であることを認めたときに作られた。

中之島にある、義民・与茂七の墓
中之島にある、義民・与茂七の墓

ある日、大杉栄の会のS氏が、ふと訪ねて来た。手に、賞状入れの筒を持っている。氏はおもむろに筒から書を取り出して広げた。”与茂七” 水上勉 と書いてある。そして、氏は、”中之島出身だと聞いたので、興味あるかと思い、、、よかったらあげます”と。水上勉氏は生前、義民・大竹与茂七の戯曲を書いた。その時、記念のお酒も造っており、そのラベルとして書いた3点の内の一点なのだそうだ。戸惑いつつも、手にとり、この書を生かすことができるのかと自問自答しながら、強く興味があったのだろう、ちゃっかりと頂いてしまった。

それから数ヶ月後、中之島村在住の高森氏よりお借りした水郷三沼の史によって吉原家の本家の先祖が、与茂七裁判に名主として関わっている事を知り愕然とする。

高森氏の”安心してください、吉原太一郎、吉原右ェ門、両氏は、中間の立場に立ち与茂七に恨まれるようなことはしていませんから、、。”という話を聞いてホッとする。

水上勉氏の書、与茂七は、額に入れて、写真館内に飾る予定である。

与茂七裁判のくだり_水郷三沼の史6P
与茂七裁判のくだり_水郷三沼の史6P

2009年

9月

30日

大地と治水 美しい関係

映像作品タイトル   新川排水機場に設置される大型ポンプ
映像作品タイトル   新川排水機場に設置される大型ポンプ

「お米一粒に千人の神様がいるんだよ、お米を一粒残さず食べなさい」と言ったのは母だったのか小学校の先生だったか覚えていないが、新作映像“水稲史眼”撮影のためにカメラを回しているときに、この話を何度となく思い出した。この新作は、新川掘削の史実に触発されて制作した“新川史眼”の続編である。撮影は4月のから始まり、5月の田植え、6〜8月の成長期、9月の稲刈りまで続けた。

稲の成長を撮影するのは初めてなので実に新鮮だった。
豊穣な大地”、緻密な治水システムとしての川、それらの美しい関係は作品化しようとしていなければ気がつかなかっただろう。

今年の夏、2年ぶりに長岡市中之島を訪れた。“水稲史眼”の編集を始める前に、吉原家3代の記恩碑を今一度拝もうと思ったからだ。この碑は信濃川治水の会の中心メンバーとして分水工事に功績を残した吉原義雄、その父・由太郎、祖父・源太3代に恩義を報おうと中之島大沼新田の住民が建てたものだ。
この3代は吉原家の本家にあたり大沼の地主だった。

地主といえば聞こえが良いが、住民を食べさせていかなければならない責任があり、私財を使って分水工事をするのは必然だったようだ。戦後、GHQの指導の下で農地解放があり農業の近代化が始まる。義雄の三男の静雄は、農業の発展に尽くし全国レベルの農協組織の役員まで務めた。これは中之島在住の高森精治氏から聞いたばかりの話である。高森氏は長い間、吉原静雄と共に仕事をしており記恩碑の隣にわかりやすい説明パネルを設置することを率先した人でもあった。高森氏にお借りした本「水郷三沼の史」によると、吉原家はその地に14代続いており、初代吉原九兵衛が中之島の地に来たのは、今から370年前、豊臣と徳川の戦いの時代にまでさかのぼる。荒れ地だった中之島の大沼を開拓し何年もの歳月をかけて新発田藩(中之島は当時新発田藩であった)の許しを得て地主になった。このような史実は、中之島大沼だけでなく開拓された土地・新潟の歴史をひもとけば、いくらでも出てくるだろう。

吉原家三代を祀る紀恩碑     田植えの準備
吉原家三代を祀る紀恩碑    田植えの準備

私が新潟県の川をテーマにした映像作品は、“水稲史眼”で5作目になった。なぜ川に惹かれるのか不思議に思いながらものめり込み、ついには義雄の手がけた川の改修や静雄の努力により整備された田んぼで、先祖の霊に導かれている気分になりながら撮影ポイントを探している自分がいた。

”水稲史眼”は新川河口排水機場(新潟市西区内野)に大型ポンプが設置されるシーンから始まる。今年の4月22日の事だが、
水稲地区新潟を守るために長い間働くことになる。県内で働いている排水機用のポンプは大小あわせると400以上あるという。雨の季節など、これらのポンプがフル稼働して強制的に排水をする。仮になんらかのトラブルでポンプが止まれば、豊穣な新潟平野は元の潟か海に戻ってしまうのだろうか?



■映像インスタレーション“水稲史眼”は、西区DEアート(2009:9月26日−10月11日まで)の期間中、静田神社(新潟市西区内野)で、ふるさとしばた「食」と「職」のおまつり(10月10日-11日)では新発田市地域交流センターで、それぞれ上映された。


この文章は2009年9月30日新潟日報文化欄に掲載

2009年

9月

05日

見慣れた新潟 異質な視線で

新発田川上の公設市場で撮影するアンドリュー・フェルプス
新発田川上の公設市場で撮影するアンドリュー・フェルプス

人は、どのような気持ちになった時、カメラを構え写真に残そうとするのだろうか? それは、目の前に展開する光景を記憶にとどめたい、大切な人に伝えたいと望む時なのではないだろうか? 私だけでなく多分誰でも初めて訪れた旅先にはカメラを必ず携帯し、目に留まる風景があれば写真に残そうとする。しかし自分の生活圏では、見慣れた風景に囲まれているせいか、カメラ自体を持ち歩かないし、輝く光景があったとしても見過ごしがちである。

撮影:アンドリュー・フェルプス
撮影:アンドリュー・フェルプス

完成した写真集、「日本に向けられたヨーロッパ人の眼・ジャパントゥデイvol.11_新潟県」を見ると、見慣れた新潟の光景が、3人の写真家の優れた感性と技術によってエキゾチックに浮かび上がっている。

オーストリア在住のアンドリュー・フェルプスは、グローバル化することによって失われていく光景を写真集にして評価されているが、そのまなざしに捉えられた現在の新潟のジレンマが美しく浮び上がっている。アンドリューの場合、特にアメリカ出身ということもあり、どこを訪れてもアメリカのリードするグローバリゼーションの及ぼす影響に違和感じ、そのひずみに目がいってしまうのだろう。

撮影:アルトゥーラス・ヴァリャウガ
撮影:アルトゥーラス・ヴァリャウガ

リトアニア出身のアルトゥーラス・ヴァリャウガは、主に”食”に絞って撮影をしたが、年配の女性が味噌を作るために働き続ける姿を「まるで日本舞踊をみているようだ」とコメントしている。泥のついた大根の入った発砲スチロールの箱を背負う後ろ姿は、われわれには見慣れた光景だが、まるで映画のワンシーンのようである。

撮影:ハンス=クリスティアン・シンク 
撮影:ハンス=クリスティアン・シンク 

ドイツ出身の、ハンス=クリスチャン・シンクは、一貫して風景をテーマにしているドイツを代表する写真家である。
新潟へ来る前は荒々しい日本海、長く続く高速道路を撮影しようと計画していたようだが、訪れた阿賀町の山村の集落の美しさに魅せられたようで、2週間近く、そこに滞在して山村の撮影を続けた。雪の残る畑、山間の道、雪囲いの庭を優れたコンポジションによって美しく描き出す。

 

今回の写真プロジェクトをディレクションしたインディペンデント・キュレーターの菊田樹子さんから興味深い話を聞いた。写真のテーマも違い、個性の違う三人の写真家が同じように答えた事があるというのだ。三人とも、新潟県の観光案内やガイドに載っているような観光地に、なんの興味をしめさなかった。三人とも自分たちの足で歩き人に触れて感じるままの新潟を撮影することを要望したというのだ。
私は仕事柄いろいろに国を旅した経験があるが、そこの国の人が見向きもしない風景を撮影して驚かれた経験がなんどもある。工事現場の標識であったり、野菜や魚の並ぶ市場だったり、洗濯物を干した路地の風景に感動して撮影したりしているからだ。それも異国情緒の一種だろう。その国ではごくありふれた光景が、とても魅力的に見え撮影してしまうのだ。私も観光名所よりも、その場所にしかない日常の風景に多くの場合魅せられてしまうところがあるので、三人の写真家の要望がよく理解できた。

この写真集は、三人の感じた新潟の“今”が、優しく、批評的に描かれている。来年、ヨーロッパ、そして新潟での巡回展が準備されているが、どのような反応があるのか大変に楽しみにしている。

※アンドリュー・フィリップ


この文章は、2009年9月5日新潟日報_文化欄に掲載された。

2008年

7月

03日

乾板に浮かぶ文化都市新発田の面影

“写真  筆に書く、絵たくみよりも、目の前に、たまもてうつす、かけそさやけき”
“写真  筆に書く、絵たくみよりも、目の前に、たまもてうつす、かけそさやけき”

子供の頃の遊び場は茶の間だった。テレビが置いてあったし、必ず誰かが居たからだ。冬などは歌番組に夢中になり炬燵の炭で靴下を焦がしたりもした。炬燵に足を入れ仰向けの姿勢で裸電球や天井の木目をぼんやりと眺め、床の間の逆さの”謎の掛け軸”を見つめていた。書の美しさには惹かれたような気がするが、なんと書いてあるのかはさっぱりと解らなかった。

その頃から40年経ってようやく、その書の作者の事を知ることになるとは実に不思議な事に思える。

3年程前の事になるが、写真館の土蔵から吉原一族の肖像や見慣れない建築物や掛け軸が写った1000枚の乾板(昔のフィルム)を発見した。メモから明治、大正まで遡るものもあることがわかったが、そのクオリティは非常に高く現在の写真技術にひけをとらないどころか優れているように思えた。

その後、図書館に通い調査に没頭する中で、わが家の茶の間にある掛け軸の作者が、初代新発田町長・原宏平の書であることを知ることになる。 宏平は新発田町長でありながら文化人、
一日千首吟詠で高名な歌人でもある。この掛け軸の書は、宏平が新発田で最初に開業した丹後写真館を訪れ、写真を撮って貰ったときの気持ちを詠ったものだったのだ。

五階菱の紋付きを着た初代新発田町長 原宏平 1910 撮影:丹後寛一郎
五階菱の紋付きを着た初代新発田町長 原宏平 1910 撮影:丹後寛一郎

“写真  筆に書く、絵たくみよりも、目の前に、たまもてうつす、かけそさやけき”

写真の描写力への感動が伝わってくる。諏訪神社の近くにあった丹後写真館は明治時代、新発田で多くの写真を撮影したが一代で写真館を閉鎖した。推測ではあるが、掛け軸はその時に私の祖父秀長が譲り受けたものと思われる。一ヶ月程前、新発田の歴史探索を始めた頃出会った、しばた台輪・わ組会の会長・小林精治氏が、丹後寛一郎・撮影の乾板100枚を吉原写真館に持ち込んだ。小林氏は、わ組の歴史に関係がある下町・神明宮の乾板を調べているうちに、丹後寛一郎にぶつかり、乾板を保管していた子孫に行きついたのだという。この乾板が残っていたこと、隠れている映像を想像して、氏と私は興奮した。

大倉喜八郎          新発田城三階櫓
大倉喜八郎          新発田城三階櫓

昨日、その乾板の画像化が終わったのだが、“丹後寛一郎”“大倉喜八郎”、 “明治政府の廃城令で取り壊された新発田城”等が写っていた。誰の写真かわからないものも多いが、全て新発田の歴史に深く関係する人物の写真だと思われるので、これからの調査が楽しみである。

原宏平が丹後写真館で唄った書の掛け軸は、今も同じ場所、茶の間にかけてある。その由来が解らなければ単なる古いモノでしかなかったのに、それを知ってから特別な宝物に見えてくるのは実に不思議な事である。重厚な記憶の蓄積の上にある新発田には、
同じように特別な宝になるべきモノが、発掘されないまま、そして未編集のまま色々な所に散在しているのだろう。

ここ数年の間、新発田でも古くからあった建物や土蔵が壊され続けている。それを見る度に、宝となるべきモノが建物と一緒に失われていているのではないかと思い胸が痛む。

現在、宏平の流麗な草書を見ながら、眠っている宝をどのように探しだし未来に繋げれば良いのか思いめぐらせている。

この文章は、2008年7月 新潟日報社発行の ”新潟文化”に掲載された。

2008年

5月

02日

二人の仏教徒

東京蔵前 ギャラリー空連房         新潟 正福寺の音楽イベント
東京蔵前 ギャラリー空連房         新潟 正福寺の音楽イベント

何年前か覚えていないが、NHKの衛星放送の特集番組に、著名な写真家・篠山紀信氏が出演していて自分の生い立ち、現在の仕事を選んだ経緯を淡々と語っていた。
氏がインタビューを受けていた場所は、心地よい光が差し込む寺の境内。そこに座り、中空を見つめて回想する光景がテレビに映る。自分が写真家になった理由の一つに、実家が寺であったことを強く主張していた。幼児体験の一つとして、雨戸を開けた瞬間に降り注ぐ光に浮かびあがる阿弥陀様に魅せられたこと、寺という空間が生み出す光と闇のドラマが現在の自分の感性を作り出したと自己分析していた。

私はその時、30年来の友人・東京蔵前に400年続く長応院の現住職のT氏のことを自然に思い起こしていた。なぜならば、今は寺の仕事を継ぎ住職の仕事が天命のごとく専念しているが、写真というメディアに取り憑かれて、20年以上の間、ニューヨーク、ロサンゼルスを徘徊しているのを隣にいるがごとく見詰めていたからだ。

細かい経緯は覚えていないが、T氏は高校時代に写真の魅力を知り、18歳にてニューヨークの美術大学に留学、写真を専攻する。
私と出会った22歳の頃には、すでに独特の写真美学と論理を身につけていた。年齢が同じこと、私の実家が写真館であったこともあって気が合い、週末などは夜遅くまで写真・美術・音楽の話に夢中になっていた。話題の中の一つに、寺の役割とは何か?
写真館の役割とは何か?という実家の家業についても何度か話し合った。その時に私たちが出した答の一つは、寺も写真館も共に町を構成する要素の一部であり、公共性があるということだった。現在では寺は法事を司るだけの場所というイメージがあるが、その昔は、市役所や学校の役割を果たしていて最も公共性の高い場所だったのだ。

2年前、突然、T氏から電話がある。
写真を展示するための画廊空間を長応院の境内の中に企画して欲しいとことだった。檀家はもちろん、それ以外の人にも、自分のコレクションした写真を公開して、仏教の根底に流れる真理を伝えていきたいとも言う。その画廊の名前は、彼の戒名の一部を使い“空蓮房”と名付け、現在も展示活動が続いている。

そして同じ頃、音楽関係の友人を通じて新潟・西堀通にある
正福寺の跡継ぎであるK氏と知り合う。氏は、独特の魅力で若者を集め、独自のネットワークで次々と音楽イベントを企画し成功に結びつける。寺の仕事が暇な時期などは、まるで何かに取り憑かれたように寺を使って音楽会を企画する。特に宣伝しているわけではないのに、寺に60人以上の若者が屯して音楽に真剣に耳を傾ける。それまで互いに知らなかった者同士が、音楽と場所を共有することにより自然に一体化する。東京でプロの美術家として数々のイベントを企画した経験がある私にとっても、K氏は刺激的な存在になっている。

“画廊スペースを境内に作り写真展を企画するT氏”、“寺で音楽会の企画をするK氏“ 仏教徒二人の活動を重ね合わせると滲み出るように“公共”とう言葉が浮かびあがる。本来、この世の物質全て、誰のものでもない。その物質を滞らず流し続けなければ、この世は破綻をおこす。その流れを作る仕事が仏教徒の仕事だと、二人は直感しているように思えた。

2008年

2月

15日

大渋滞新潟は遠く

黒煙は、震災で燃える昭和石油 旧七号線から新潟を見る   撮影:吉原俊雄
黒煙は、震災で燃える昭和石油 旧七号線から新潟を見る 撮影:吉原俊雄

現在は新新バイパスと高速道路があるので、新潟を随分身近に感じるが、昭和30年代、私の子どものころ、新潟はとても遠いところだった。

新潟には母の実家があり、盆、正月等の都度も連れて行かれたが、必ず旧七号線木崎経由のバスだった。冬は、消雪態勢が整備されていなかったこともあり、渋滞が多く、新潟へ行くのに2時間近くかかることもあった。

いつだったか、間違えて葛塚回りのバスに乗ってしまった。
いつ着くのか何度も母に尋ねたが答えてもらえず、しまいには叱られる始末。揺れとにおい、延々と変わらぬ風景を見続け、極度の不安で気持ち悪くなってしまったことを覚えている。

この写真は、昭和39年6月16日、新発田の旧道7号線上、車の中から新潟方面を父が撮影したものだ。黒煙は大地震により火災した昭和石油のタンクである。一昼夜通じて燃え続けたという。アルバムには、ほかにも新潟地震の現場写真がたくさん貼られていたが、あえて新潟へ向かう途中の、この写真を選らんだ。雪の日でさえ渋滞した当時、震災日新潟へ簡単に到達できるわけがない。
道中、父が、何を見て、何を感じていたのか、この写真は私の想像力をかき立て、間違って乗った葛塚経由の冬のバスを思い起こさせた。


この文章は、2008年2月15日新潟日報_想い出写真手帳_吉原写真館編に掲載された。

2008年

2月

14日

不安な一夜が明けて

* 第2室戸台風を調べると、新発田市では全壊1052棟、半壊991棟とある。新潟を襲った最大の台風だった。さぞかし恐ろしいことだったと思う。
* 第2室戸台風を調べると、新発田市では全壊1052棟、半壊991棟とある。新潟を襲った最大の台風だった。さぞかし恐ろしいことだったと思う。

昭和36年9月16日、台風第18号(第2室戸台風)が新発田を襲った。この台風は主に近畿地方に大きな被害を与えたが、大雪には慣れていても、台風に慣れていない新発田人にとっては、忘れられない史実であるようだ。

当時、私は1歳で何も覚えていないが、祖母のアルバムを見ると十枚以上の台風被害の写真が貼ってある。瓦が吹き飛ばされ剥き出しになって垂木が露出している屋根、崩壊しかけた台輪、倒れ込んだ大きな木に破壊されたブロック塀、瓦の破片が飛び散るアスファルト道路、それらの写真を見るといかに被害が甚大であったか、大変な事だったかを知ることができる。それらは貴重な写真と思われたので、この紙面に使うことを何度か考えたが、結局、
この写真を選んだ。次の日に撮影された掃除の風景で、手前から、3歳の姉、祖母、そして隣の靴屋の篠崎さんである。

母に当時の様子を尋ねたところ、台風が来ているときは、家の中にいても生きた心地がしないほど不安だったこと、また、台所の床下にあった穴蔵に水が貯まり、掃除が大変だったことなどを思い返すように話すのだった。

この文章は、2008年2月14日新潟日報_想い出写真手帳_吉原写真館編に掲載された。

2008年

2月

13日

熟練技術で仕上げ

写真館の仕事は撮影の仕事が主のように思われがちだが、撮影後の仕事も重要であり手間がかかる。フィルムの現像、プリントという行程はよく知られているが、他にフィルム修整とプリントのスポンティング(仕上げ修整)という作業ある。これが大変なのだ。フィルムの修整は、そこに写る図像が小さいことやネガポジが反転しているため熟練した技術が必要で主にベテランが担当する。

プリント後のスポッティングは、主にプリント時にフィルムに付着する埃による白抜けの濃度を合わせた墨を細い毛筆でレタッチする作業である。この写真の、祖母や母らが掘りごたつで黙々と働いているのは、スポッティングをしているところである。そこは幼少期の私の遊び場の一つだった。

確かミカンだったと思うが、持って入ろうとしてして父にこっぴどく叱られたことをくっきりと覚えている。後になってわかったことだが、柑橘類の成分が写真を変色されため、写真の作業場への持ち込みは御法度だったのだ。現在、アルバムを開き、この変色しない写真を見つめ「あの時」を思い出している。

この文章は、2008年2月13日新潟日報_想い出写真手帳_吉原写真館編に掲載された。

2008年

2月

08日

街に溶け込む提灯

昨年、夏の終わりを告げる風物詩・新発田祭りの帰り台輪を久しぶりに堪能した。かなりの人手で、これほど多くの人がどこから来たのかとも思えるほど。これだけ伝統的なイベントが現在まで続いていることに感心もした。

しかし、気になったことが一つある。諏訪神社近くは比較的暗いため、台輪も引き手も、提灯の幽玄な光に幽玄に浮かびあがって美しく、クライマックスの一つ、”あおる”姿も勇ましく見える。しかし、交差点を過ぎアーケードのある通りにさしかかると、蛍光灯の均質な明るい光に照らし出され、
陰影をなくした台輪は本来持っていたマジカルな力を失って見え弱々しく見えてしまうことだ。せめて、台輪が通る時間だけでも、アーケードの街頭を裸電球にする等の演出をしてはどうだろうか、と考えるはわたしだけだろうか?

今回選んだのは昭和30年代の帰り台輪の写真である。これをよく見ると帰り台輪には全く違いはないが、とりまく環境が違っているのに気づく。特に光に注目するが、街灯、室内の光の明るさが台輪の提灯とほぼ同じため互いに雰囲気を醸しだし独特の空間になっているのだ。

*これだけの演出をわずか一夜にして設置するディレクション(仕切り)は誇るべきだ。私には、祭りの演出とディレクションの中に、商店街再生のヒントがあるように思えるのだ。

この文章は、2008年2月8日新潟日報_想い出写真手帳_吉原写真館編に掲載された。

2008年

2月

07日

9年間、同じ学びや

前シリーズを書いた建築写真家、高校生の大竹静市郎氏が、
東京の撮影に夢中だったころ、私は外ヶ輪小学校に通う小学生の低学年だった。この写真を見ていると、色々な思い出が走馬燈のように蘇る。なぜなら、学校の右半分が、外ヶ輪小、左半分は本丸中学で、外ヶ輪小学校の卒業するとそのまま左側の中学校に入学。合わせて9年間同じ校舎通い続けたからだ。

その思い出の一つ。運動靴をなくして、何日間か裸足でいたことだ。記憶は曖昧なので、悪戯されたのか、どこかに置き忘れたのか。冬の凍てついた廊下の板張りが、足の裏を突き刺す感覚だけがわずか残っている。運動靴をなくしたことを親に言えば良いのに、叱られることを恐れてか言い出せず後ろめたい気持ちと一緒に数日間登校した。

思い出をもう一つ、中学校の時の冬、生徒の間で、二階の窓から飛び降りるのが流行り、自分も一度だけ試したことがある。3メール以上雪が積もっていたので皆安全だと思っていたのである。数日後、よそのクラスのだれだったろう、雪に埋まった鉄棒の上に飛び降りてしまいケガをした。この遊びは禁止になった。こんな思い出でばかりが浮かび上がってくる。

*学校アルバムに撮影されたもので、青空に白い雲、白壁に映えるこの美しい校舎は建てかえられたが、正門なでは昔のまま残っている。

この文章は、2008年2月7日新潟日報_想い出写真手帳_吉原写真館編に掲載された。

2008年

2月

06日

文化薫るふるさと

吉原写真館の玄関前である。向かいが近医院。右隣が饅頭屋、その隣が薬屋、左隣が篠崎靴屋。遠くに見えるのは懐かしい銭湯アヤメの湯。煙突の下には、大鋸屑が山のように積んであり、近所の子供仲間で埋もれながら遊んだ。

この写真の19年後、21歳に成長した私はニューヨークのPratt Instituteという美術大学に奨学金を得て留学した。それから25年ほど、実にいろいろな国を旅したが、そこでできる友人はみんな、自分の町を大切にする人ばかり。インターナショナルだと思っていた町は、実はローカリズムと濃厚な文化に満ちているのだった。

私が上京し、海外に行ったのは、若気の至りで新発田には文化がないと信じていたからなのだから、それは大きな間違いで、文化の根源はここにこそ残っていたのだ。人が生活するところには工夫が生まれ、時間が蓄積することによって文化へえと変容する。

歴史ある町新発田だから、文化に満ちているのは当然のことだ。

*昭和38年6月くらいの写真で、右2歳、左が4歳の姉、父が撮影したものだ。白黒写真に写し取れたまばゆい光。「あのころ」があふれていれる1枚だ。

この文章は、2008年2月6日新潟日報_想い出写真手帳_吉原写真館編に掲載された。

2008年

2月

05日

カメラマンの町だった

3年ほど前の事になるが、吉原写真館の先代撮影の写真を見て頂くため恵比寿にある東京写真美術館の専門調査員・金子隆一氏を訪ねた。金子氏は写真の造詣が深いのはもちろん写真史にも詳しい方である。ちょうど、新潟を代表する写真家の「堺時雄」の関係資料の整理に追われているということだった。そんなことから話は弾み、新潟は優れた写真家を数多く排出していること、日本で一番多くの乾板(フィルム以前の感光板)が残存しているのではという話を聞き心躍る。また日本写真会新発田支部は日本においても早期に創設され活動も意欲的なことが知られているのだともいう。私は尋ねみた。新発田には優れた芸術作品多数残っているので、芸術を使った町活性化はいかに、と。金子氏は、可能性は十分あるどころか、元々、新発田は芸術都市だったと力強く答えた。この連載を始めた建築写真家・大竹静市郎氏のような芸術家たちが新発田で生まれ育ったのは、実は必然だったのをこの時初めて知った。

*日本写真会新発田支部の撮影会の時のものである。右から二番目が父である。カメラもファッションも固有の美学に満ちている。

この文章は、2008年2月5日新潟日報_想い出写真手帳_吉原写真館編に掲載された。



2008年

2月

02日

光と其の階調

すっかり野良犬を見なくなった。私が小学生だったころは、野良犬と出くわすことがあった。走って逃げたいのを我慢して、そろそろと通り抜けてため息をついたこともあるが、焦って走ってしまって、しこたま追いかけられて泣いたこともある。

この写真、どこにでもあったような小路の風景は、父が撮影したものなので新発田近郊だと思うが、どこだかわからない。

が、なぜか一人で歩いたことがあるような気にもなる。この柔らかい質感は日本写真会の特徴を表していると思う。なぜならば、「日本写真会は、諧調を大事にしている」ということを繰り返した父の言葉を、深いところで覚えているからだ。同会の創始者は、資生堂の創始者・福原有信の三男・信三である。信三は、若いとき、画家を目指してパリに留学していた。信三の著書『光と其階調』では「写真芸術は自然を端的に表現する俳句の境地に近い」とする主張を展開し写真界に大きな影響を与えた。パリで印象派の影響を直接受けたからだろう。父の写真が印象派の流れにあると思うと楽しくもなる。

*犬は怖いものだと思っていたが、自分で飼うようになってからすっかり気持ちがわった。光に浮かぶ、写真の中の犬の気持ちが分かるような気さえする。

この文章は、2008年2月2日新潟日報_想い出写真手帳_吉原写真館編に掲載された。

2008年

2月

01日

何も変わっていない

明治3年(1870年)ころというから文明開化の音がしただろう。
初代・秀齋は三条寺町にて漢方医のかたわら、今で言う写真スタジオ「真写堂」を始めた。明治23年(1890年)二代目・玄琳は、新発田の現在地の大手町2丁目に越し「吉原写真館」と屋号を変える。三代目・長平の軌道に乗ったが、昭和十年(1935)年、新発田町(当時)の約3分の1を焼き尽くす大火があり、全焼した。翌11年、四代目秀長によって再建されたのが、現在の建物だ。木造三階建ては大変にモダンで珍しいものだったとも聞く。建物はほとんど変わらず、当時のままで今でも立っている。

前列右から3番目にいるのが祖父・秀長、四代目。この写真を見ても、誰か分からない人の方が多い。私はここに住んでいるのに。「この人は誰?」。母に聞くと、「誰々の親戚で・・・」「そうそう、その人は今はね」とりとめもなく、話に夢中になる。その目を見ると、私の知らない世界と繋がっているのがわかる。吉原写真館、この町・新発田には、私の知らない想い出が幾重にも集積されている。

*ちょっと古くて、昭和25年頃の撮影。
アラベスクの床がいまの新鮮な洗面所、天がうんと高いスタジオなど、昭和のモダンがあふれている。

*この文章は、2008年2月1日新潟日報_想い出写真手帳_吉原写真館編に掲載された。

2008年

1月

31日

英雄・豊山が帰ってきた

*郷土の英雄・豊山が、凱旋したさいに、父が撮影した1枚。  昭和39年と思われる。
*郷土の英雄・豊山が、凱旋したさいに、父が撮影した1枚。 昭和39年と思われる。

茶の間に鎮座するテレビは、当時小学生の私にとって、自分の行動範囲を遙かに超えた世界とつないでくれるマジカルなウィンドウだった。学校から帰ると必ず茶の間に行き、テレビの前に座り、チャンネルを「5」に合わせてからスイッチを入れた。

民放はBSNだけだったから「5」といえば通じたのだ。ブラウン管の光が揺らめきヒーローである「8マン」が現れる。と、祖父がテレビの見過ぎは目によくないとからとかいい、するりと「8 (NHK) 」にする。物静かな祖父だったが、立ち会いが始まると隣にいてわかるくらいに集中力を高め行司の「のこった、のこった」に共鳴するように“ハッ”と気合いを入れた。

そういえば、祖父はスタジオで写真を撮影する瞬も、“ハッ”とか気合いを入れてシャッターを切っていた。そして、新発田市五十公野出身、郷土の英雄、大関豊山が登場すると、いつのまにか家中の者が茶の間に集まり固唾をのんでいた。行司の掛け声、歓喜、ため息。走査線が作り上げる力士の動く図像と一緒になって記憶の中で振動する。私にとっての大関豊山は、ブラウン管をぐっと見入る祖父の記憶なのだ。

 

 

この文章は、2008年1月31日新潟日報_想い出写真手帳_吉原写真館編に掲載された。

 

2007年

10月

13日

新川史眼

映像作品タイトル         静田神社
映像作品タイトル         静田神社

二年前の三月、私は中之島町(現長岡市)を旅していた。新発田から中之島まで車で2時間、日帰りの旅にはちょうど良い距離だ。

本家の菩提寺である専正寺、墓、中之島図書館を回り、夕方には大河津分水資料館にたどりつき、信濃川沿いにある碑をしばらくの間、見つめていた。吉原家の本家の義雄が大河津分水工事の推進、信濃川や刈谷田川回収に私財を投じて尽くしていた事実を、
図書館にあった中之島村史で知っていたからだ。

実は、前年の夏に中之島を訪れる予定だった。しかし、七月十三日の大洪水により、翌年の平成十七年まで延期せざる得なかった。テレビ放映される洪水の中之島、泥水が民家を襲う光景をよく覚えている。その時点では、先祖が分水工事にかかわっていたとは知らなかった。しかし、この中之島への一日の旅を終えた後、川や田を見つめる自分の視線が変化しているのに気がついた。

新潟市の新川は、大学に通う途中何度か通りすぎたことがあるが、いつみても茶褐色であること、水の流れが一定でないことが少し気になったくらいだ。しかし何ヶ月か前、新聞を通して、人工のものであることを初めて知った。川と言えば、山や大地にたまった水の流れが作る海への道のおとを言うと思っていた。新川は、川と名付けられてはいるが、本来の意味の川ではなく、人工的に掘削された放水路だったのだ。私はその事実を知ったとき、二年前の中之島への旅を思い出した。

感動という言葉がある。日常的に使われているとは言えないが、
誰もが使ったことがあるはずだ。ある映画を見て感動したとか、ある絵を見て感動したとか、ある風景を見て感動したとか、、、。感動する対象は、作品だったり、自然の風景だったりする。随分前、学生だったころ、この”感動”という言葉が引っかかり、考え巡らしたことがある。その時は、英語の辞書にある受身形動詞、be moved, be touched, be impressed,を知って妙に納得した。感動とは、能動的に動くのではなくて、対象の美などに”動かされること”という受け身なのだと。

私が何かを撮影するときは、やはり何かに感動したときである。その風景の美などに動かされて自然にシャッターを切る。その特別な場所と時間、その時の雰囲気を忘れたくなくて、あるいは後でゆっくりと反芻したくて、また親しい友人や肉親に見せたいと思って撮影する。

記録したい、
記憶したい、
忘れたくない、
伝えたい、
残したい、

撮影の理由、作品制作の心理は興味深い。美の基準は、人それぞれである。人によっては秩序ある自然の風景を崇める。
しかし、私の場合、人工的に作られた都市の美や朽ち果てそうなコンクリートの残骸、放水路のよどみ、ときには渦巻く水の動きに美しさを感じる。人が自然と闘った痕跡が想像力をかき立てるからだろう。

新潟市西区を流れる新川は、何の変哲のない流れのようだが、多くの人の力と汗によって掘られた人工の川である。その成り立ちに惹かれて、「新川史眼」と題する映像を作った。作品は、映像インスタレーションとして10月13日から始まる新潟大学の地域活性化プロジェクト「西区DEアート」で展示される。私は、この作品を十八人の鑑真はじめ、五十二の村々、二百万人近い労働者、また現在、新川の歴史を未来に伝えようとしている方がに捧げる。

※西区DEアート
新潟大学教育学部人間科学部芸術環境講座の教員、学生たちが地域活性化を目指して16日間、さまざまなイベントを繰り広げた。
この文章は2007年10月13日新潟日報文化欄に掲載された。

2006年

11月

18日

ハワイの家族

2005年9月、初老の紳士H氏が、一枚の写真を持って写真館に現れた。千葉から来たという。その写真は、当館・先代の吉原長平が、今から100年程前、ここで撮影したものだった。

H氏の祖祖父にあたる源一郎(仮)氏は、当時、新発田に住んでいたが、次男坊 ということもあり、政府の計画したハワイ、サトウキビ畑への出稼ぎの話に飛びつき、家族を新発田において一人旅立った。残る家族 には、“仕送り”と“必ず帰る”という約束をして。最初の頃は、手紙等で、 連絡を取り合ったが、いつしか、連絡は途絶えてしまった。新発田で待つ家族は、数年は、源一郎氏の安否を気遣った。

数年後のある日、ハワイから帰った源一郎氏の友人から消息を知る。源一郎氏は、ハワイで結婚、家族と暮らしているというのだ。新発田に残った家族は、心配して 待っていた自分らが、あまりにも愚かに思え、その感情は、裏切られた 恨みへと変わって行ったという。そんな事情もあって、H氏の家 族の間で、源一郎氏は悪者として伝えられていたという。

時移り、H氏の甥である敏夫(仮)氏は、まるで祖祖父の魂に導かれるよう に自s分のルーツを調べ続け、ついにはハワイ大学に留学し、源一郎氏 のハワイの家族を突き止める。そして仏壇に置かれてあった一枚の写真 を発見する。それが、ここ新発田で撮影した家族写真である。また、源一 郎氏は床に伏せりながらも、新発田に残した家族の事を気にかけていたという話を源一郎氏のハワイの娘から聞く事になる。

その後、甥御は、仏壇にあった写真をもって日本に帰国。叔父のH氏と共に、源一郎氏 の育った町新発田を訪れた。そして、その写真を撮影した写真館(当館)を偶然 発見。少し驚き、また感動し門をたたいたというのだ。

 2ヶ月後の2005年11月、H氏は、源一郎氏のハワイの家 族2人を日本に招待した。再び家族写真を撮影するためだった。

2006年

9月

17日

大杉栄の写真

「僕が五つの時に、父と母とは三人の子供をかかえて、越後の新発田に転任させられた。父はこの新発田にその後十四、五年もくすぶってしまった。僕も十五までそこで育った。
したがって僕の故郷というのはほとんどこの新発田であり、そして僕の思いでもほとんどが新発田に始まるのだ」大杉栄『自叙伝』の、新発田人にとってはとりわけ有名な一節である。

明治二十二年十二月、大杉栄は父・東の転任(近衛連隊から新発田十六聯隊)により新発田にやってきている。当時の新発田は、明治十七年に設置された十六聯隊があり、軍都として栄えていた。同時期、明治二十二年に、二代目吉原玄琳50歳は、長男長平と妻・ツイを連れて、南蒲原郡三条・寺町から北蒲原郡新発田町西ヶ輪に越してきている。当時、玄琳は、三条寺町にて診療所を営みながら、新真堂(写真館)も経営していたが、不幸にも二度の火事に見舞われている。
西ヶ輪は、現在の通称自衛隊通りあたりで、十六聯隊駐屯地から目と鼻の先にあった。玄琳は、当時軍都として栄えていた田園都市新発田にビジネスのチャンスを求めて越してきたと思われる。その時、屋号も『真写堂』から『吉原写真館』とした。当時、十六聯隊では、写真が必要だったこともあり、吉原写真館は軌道に乗っていった。

以上の事を調べたとき、十六聯隊歩兵中尉での大杉東の息子、栄は、『吉原写真館』で撮影をしていただろうと確信した。しかし、残念ながら『吉原写真館』には、一部の吉原家の写真以外は昭和十年の新発田大火のため残っていないだろうとあきらめていた。

その後、平成18年9月16日18時ころ、高校の恩師であり、『大杉栄と明治の新発田_自由な空』の著者である荻野先生から電話がある。大杉栄の甥である豊氏が講演会のために新発田に来ており、吉原写真館で撮影した大杉栄の写真を持っているというのだ。翌日、私は大杉豊氏から、祖祖父・長平が撮影した、幼少期の大杉栄の写真を受け取った。添付した右端の少年が大杉栄である。

2005年

6月

01日

乾板発見

写真館の奥に母屋があり、奥に土蔵がある。二階建てなので、それなりに立派ではあるが、中に入っているのは、取るに足らないモノが多い。祖母が旅先で購入した人形細工、使わなくたった家具。私が高校生の頃、北海道・小樽で購入したガラスのランプなど。宝物を保存してあるというよりは、日用雑貨等、使わなくなったモノをいれる倉庫と化している。子供の頃、戦争の時に誰々が使っていたとかいう刀を発見したことがあった。ずっしりとした感じ、サヤから抜いたときのゾクとした感じは、良く覚えている。その刀は、結局、親戚の誰々のを預かっていたとかで、父がその人に返してしまった。言わなければ良かったと後悔したこともうっすらと覚えている。

二年前帰省したときに、土蔵の奧に眠っていた箱入りのガラス乾板(九〇〇枚程)を偶然発見した。本当の事を言うと、過去に一度以上は箱を開けて見た記憶がある。時が熟していなかったのか、何も感ずることもなしに、“なんだ、ガラス乾板か”という感じで、すぐに蓋を閉めて元の場所に戻し放っておいた。*ガラス乾板とは写真乳剤を塗布したガラス板で、ネガフィルムが作られる前に使われていたものだ。
普通は珍しいモノかもしれないが、現像液や酢酸の臭いのする家で育ち、道具箱から盗み出したピカピカのノミで水に浸したガラス乾板の映像皮膜をそぎ落として遊んでいた私には、これといって特別なモノではなかった。しかし、その日はどういうわけか一箱を土蔵から持ち出し、自分の部屋でじっくりと観察した。蛍光灯に透かすと反転した図像の闇の部分に銀が滲み出て鈍く光っていた。実像を見たいという衝動に多少かられたが、ガラス乾板をプリントするのは簡単なことではないことはすぐに予想できた。再び箱に戻し、普段仕事をしている机の隅に置いておいた。 

暫くしたある日、その箱を開けて一枚のガラス乾板を取り出し、仕事の都合上購入した新品の透過原稿スキャナーの受光面に丁寧にのせた。最新の透過原稿スキャナーならば、
画像を取り込めるのではと思いついたのだ。フォトショップを起動して、画像取り込みのボタンをクリックした。
スキャナー独特の稼動音が小刻みに響き、今は亡き祖父の図像が液晶モニターに少しずつ浮かび上がった。まるで死者に見つめられているような衝撃、その時の畏れの感覚を一生忘れないだろう。

この続きは、「風の旅人25号」を読んで欲しい。

※ガラスまたは合成樹脂などの透明な板に写真乳剤を塗布した感光材料で、フィルム以前に使われていた。乾板が使われた時代はとても長い。写真、カメラの歴史は、1839年フランスのL=J=M・ダゲールが開発・実用化ところに始まるとされる。写真は現在までで、168年の歴史があるということになる。明治16年5月6日(1883年)、写真師・江崎礼二が乾板を使って飛んでいるハト撮影に成功して以来、1975年、私が中学校の頃まで使っていたような記憶がある。そうなると約92年間は、世界で使われていたことになる。その後、乾板からモノクロフィルムの時代、カラーフィルムの時代を通り過ぎ、デジタルの時代へと変わってゆく。

2005年

3月

11日

渋谷の江崎フォトスタジオ

江崎礼二の墓に、祖父・秀長と祖祖父・長平の名前を発見してから、暇があれば礼二の事を調べた。出身地とあって、岐阜県図書館のHPが詳しい。そこで使われている江崎礼二肖像の写真には、子孫と予測できる江崎信男所蔵と書いてある。当然ながら、信男氏に会いたいと自然に思うようになった。

インターネットで、”江崎信男”で検索すると、すぐにヒットした。江崎フォトスタジオ。何度か訪れたことがある渋谷宮益坂の郵便局の近くにあった。このときほど、インターネット検索をありがたいと思ったことはなかった。 

江崎フォトスタジオの電話番号も表記してあったので、すぐに電話しようと思ったが、はやる気持ちを抑えて、江崎フォトスタジオの事を父に聞いてみることにした。考えてみれば、この事は、父には何も聞いていない。職人肌の父は無口で、あまり昔の事は話さないが、質問をすると静かに答えてくれる。なんと父は、東京写真専門学校時代、江崎礼二の息子である江崎三郎に習っていたというのだ。また、渋谷にある渋谷の江崎フォトスタジオに修行に行っていたとも言う。

その日の夕方、江崎フォトスタジオに電話をかけた。しかし、呼び出し音は鳴るのだが、誰もでない。日を置いてかけた何度目かの電話で初めて繋がった。電話先の人は、江崎信男氏。自分のこと、新発田の吉原写真館の名をだすと、すぐに話が通じた。そして、奇しくも私が乾板を発見した少し前の平成16年5月末、100年以上の歴史を持つ江崎写真館は閉じていることを知った。一週間後、渋谷の江崎フォトスタジオで、江崎信男氏と対面した。

 

※江崎礼二の墓

2005年

3月

10日

江崎礼二の墓

祖父の古いアルバムと同じ場所で、一枚のメモ書きを見つけた。”吉原玄琳、吉原長平、江崎礼二に師事。吉原秀長、江崎清に師事”と書いてあった。祖父・秀長の字、なんのために書いたのか?

江崎礼二の事を調べると、乾板を使った”早撮り写真師”として評価されている。また浅草十二階(凌雲閣)を作ったプロデューサーであることも知った。

 

http://www.library.pref.gifu.jp/d_lib/predec04.htm

さらに江崎礼二の墓が、谷中霊園にあることを突き止めたら
居ても立ってもいられず、谷中霊園へ墓参りに行くことにする。

谷中霊園は、綺麗に整備されていて墓の地図も用意されているため、江崎礼二の墓は簡単に見つかった。用意した花を供えながらも、落ち着かない。墓石の横側には、江崎礼二の業績が刻まれていた。大きめの灯籠がり表に”二八の会”と刻んである。その裏側には、会員と思われる名前が刻んであるのを見つけた。一瞬、震えが走った。祖父・吉原英長(秀長)と祖祖父・吉原長平の名前が刻んであったからだ。

2004年

12月

14日

山路ふみ子の写真

土蔵には、父のアルバムが何冊か保存してある。その中でも、1942年(昭和17年)〜1944年(昭和19年)のアルバムが興味深い。

この時期、父は、東京・大森の叔母の家に下宿して東京写真専門学校で勉強していた。ちょうど第二次世界大戦に重なる。アルバムを見ると、モデルの撮影をしている写真の他、富士の梨ヶ原での軍事演習の様子、分隊の共同生活などが、丁寧に貼ってある。その中で、少し異質な美しい輝きを放っている女性の肖像写真がある。そこには直筆のサインで、山路ふみ子とある。

その写真の隣には、縁側に座る4人のスナップ写真。その中の1人は学生服を着た二十歳の父、少しにやけている。その隣に座っているのが山路ふみ子。そして彼女の母親と女中と思われる人物が並んでいる。

父に、その女性のことを尋ねてみた。1人軽井沢に風景写真を撮影するために出かけた時に、偶然にも山路ふみ子の別荘地に迷い込み、庭仕事をしている彼女と出会ったのだそうだ。彼女は、大女優にも関わらず、実に気さくに話しかけてくれ、その後、何度となく、モデルの役を務めてくれたという。実際に、アルバムに使われた原板、フィルムが数枚残っている。父も実家のある新潟県新発田からお米を届けたり、数年間、懇意にお付き合いをしていただいたという。

その後、山路ふみ子は、戦前を代表する大女優であることを知った。また、私財を投じて専門看護教育研究助成基金を設立したり、映画賞を作ったりと日本の文化を育てるために、惜しみない努力を続けてきた人であることも知った。しかし、同時期平成 16年12月14日、山路ふみこ死去の記事も発見することになる。

2012年

10月

06日

街角こんぱす連載

新潟県新発田市を中心に、37000部発行しているフリーペーパー街角こんぱす」の連載の

アーカイブです。

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vol32_加治川の桜、その前で
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写真家・平間至インタビュー
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2011年

8月

29日

写真の町シバタ・プロジェクト

 

 

家族とは何か?、町とは何か?、歴史とは何か? そして、未来へ残すものは何か?

新発田には、このプロジェクトには、未来につながるヒントが数多く隠されている。

SPIRL LIFE 吉原家の140年

6年前、土蔵に眠っていた家族の乾板を透過原稿スキャナーにのせなければ、現在の自分の新発田での活動ないだろう、もちろん吉原写真館もなくなっていた。1000枚の乾板の内、50枚を厳選し、撮影された場所である写真館内に展示いたします。


写真展:吉原家の140年
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吉原写真館、写真関係、町活性化関係の記事
ここ5年の資料から、今回のイベントに関係する記事のアーカイブ
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新発田の記憶

心に残る逸品とコメントを展示するイベントの写真篇。巨匠・細江英公氏が新発田に来るのならば、町を盛り上げて歓迎しようと有志で企画した。手伝いたいという仲間、参加店、そして魅力的な写真が次々と持ち込まれ、やりきれない分は来年と、すでに次の計画が進んでいるほど。持ち込まれた写真は全て美しくリアリティに輝いている。歴史の深い町だから、その内容は実に充実しているというより驚きや歴史的発見も多い。写真を見るために町を回遊し、新発田の魅力を楽しんで欲しい。

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新潟日報連載_想い出写真手帳_吉原写真館編
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新潟日報連載_想い出写真手帳_サンチャン写真館編
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細江英公人間写真展『気骨』

2010年の文化功労者受賞者の細江英公氏の写真展が新発田で行われることに決定した。展示内容は、気骨あふれる明治生まれの財界人の肖像写真のビンテージパネル。展覧会タイトルは『気骨』。ご本人の講演会も、924日に決まっている。過去の作品、三島由紀夫の裸体写真集「薔薇刑」、秋田の農村を舞台に舞踊家の土方巽をモデルにした「鎌鼬」をスライドを使って話されるという。大変に楽しみにしている。

細江英公フライヤー
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細江英公氏_最近の関連記事
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2011年

1月

06日

写真の中の旧校舎

八軒町_斉藤家の倉庫
八軒町_斉藤家の倉庫

昨年、2010年10月の丹後寛一郎の“宝物”乾板を発見した斉藤家、八軒町裏279番地。江戸時代は武士の住む地区だった。さぞかし多くのお宝があると思ったので、その旨主人に尋ねると、すでに骨董品屋が出入りしているから良い物はないですよとの事。しかし、貴重な乾板が見つかっている。骨董品屋が、丹後寛一郎の宝物には興味を示さなかったことは、私には幸運だった。そして、乾板の他にもう一点、私は、素敵な宝物に出会った。新発田中学校校舎の”ぼろぼろのパノラマ写真”だ。冒頭の写真は、その発見の現場を撮影したものだ。

新発田中学校校舎_明治中期    撮影:丹後寛一郎
新発田中学校校舎_明治中期    撮影:丹後寛一郎

同窓会長と現新発田高等学校のお考えで、これほど貴重な写真であれば現在新築された学校内に展示しておくべきだという話になる。話の流れ上、私が修復からプリント、額装の仕事をお受けすることになる。新発田中学校は、現在ある新発田高等学校の前身で創立100年以上の伝統校だ。私もこの高校を卒業しているので発見したとき強く感じるものがあったが、これほどのお宝だったとは思いもしなかった。

 

県立新発田高等学校旧校舎_昭和37年頃 撮影:吉原俊雄
県立新発田高等学校旧校舎_昭和37年頃 撮影:吉原俊雄

母校に対する想いは深い。新発田中学校の木造の校舎が想い出になっている年代の方々もいるが、3年前に壊された旧校舎の方に新発田高等学校の想い出があるという人も多い。私自身もその口だ。新発田中学校校舎のパノラマ写真の隣に、旧新発田高校の写真を並べるべきだとう話に展開する。

 

吉原写真館と新発田高等学校とのつきあいは長い。実際、多くの写真があるのだが、パノラマ写真の横に置くべき写真というのは実に難しい注文だ。丹後寛一郎の写真が、それほど素晴らしいからだ。

 

悩んでいてもしかたがない。 写真館の土蔵に入り当てもなく探し始める。まさにその矢先、目にとまる箱があった。”学校校舎”と父の字、マジックで強く書いてある。箱を開けた。一枚目の乾板は、施工したばかりの新発田高校旧校舎の写真だった。

 

※県立新発田高等学校ホームページ

2011年

1月

05日

模型でできた城下町

この写真は、新発田市のまちづくり論議に役立てて欲しいと、東京芸術大学建築科のヨコミゾマコト研究室が制作した立体模型の新発田城だ。模型全体は、JR新発田駅から城址公園までの1.6キロ四方の中心市街地を500分の1の縮尺で再現している。

 

 

私とヨコミゾマコト氏の出会いは、1987年に原宿で行われた個展で会話したときだから24年前になる。翌1988年、青山で大規模な個展をしたときには、無理な要望にも快諾してくれ何十枚もの図面をおこしてくれた。 その後、2006年、蔵前の写真ギャラリー空蓮房を共に作り上げる。そして、2007年、父の告別式の時に、新発田まで駆けつけてくれた。父の御斎は、新発田川に面する”老舗割烹・志まや”で行われたが、ヨコミゾ氏は、その界隈に残る雰囲気に感動し新発田に強く惹きつけられたという。

 

 

 

新発田川上に立つ公設市場、その奥が 老舗割烹・志まや
新発田川上に立つ公設市場、その奥が 老舗割烹・志まや

ヨコミゾ氏は、その年から2年間、新発田リサーチプロジェクトを敢行する。1回目は新発田市街地、2回目は五十公野エリア。綿密な事前研究を元に現地調査を進めて探索MAPにまとめ、シンポジウムも開催。県外在住の視点でまとめられていて、大変にわかりやすく、また大変刺激的だった。そして、昨年(2010)年、3回目のプロジェクトとして、市街地の巨大立体模型を制作した。新発田市は現在、旧県立病院跡地利用や市役所の建て替えなど大規模な再開発が控えている。ヨコミゾ氏によれば、この立体模型を、まちづくりのツールとしてボロボロになるまで使って欲しいとのことだ。

 

県立新発田病院屋上から見た新発田市街地 2011年1月
県立新発田病院屋上から見た新発田市街地 2011年1月

この模型の前に立つと、城下町として発展した新発田の町を俯瞰で見ることができる。観光エリア、文化エリア、官庁エリア、商業エリア、住宅エリアを城下町らしさが残る旧道がつなぐ。まるで細胞のようで美しい。しかし、残念ながら中心市街地は寂れシャッター街と化している。市内に住む仲間内では、“ 新市役所の場所”によって新発田の未来が決定されるのではないかと話題の中心になっている。ヨコミゾ氏が制作した立体模型をじっくりと観察すれば、“市役所をどこにつくるべきか”の答えは自然に浮かび上がって来るように思える。 


※新発田市ホームページ

※神明橋からみる未来風景

2010年

12月

30日

丹後寛一郎の宝物

八軒町裏、斉藤家の倉庫
八軒町裏、斉藤家の倉庫

今年の10月(2010年)だから、つい最近の話である。二年ほど前、丹後寛一郎の乾板を持ち込んだ下町・台輪の会の小林精治氏から電話あった。同じ場所、旧町名・八間町裏の斉藤氏の家の倉庫で、新たに大量の乾板が見つかったというのだ。 小さい町の良いところは、濃密な出会いが、歩ける範囲で起こる。小林氏の家から、写真館まで、歩いて5分。そして、丹後寛一郎の乾板が発見された斉藤家まで、歩いて10分。

丹後写真館全景(山田たか子氏蔵)明治中期
丹後写真館全景(山田たか子氏蔵)明治中期

吉原写真館が、新発田で最初の写真館だったと思われる方が多いがそうではない。丹後寛一郎の経営する丹後写真館が、新発田で一番古い写真館で、諏訪神社の斜め向かいにあったと聞いている。この辺は現在、道路になっているが、元々は、大倉喜八郎の土地だった。丹後寛一郎の乾板に、若き日の喜八郎の写真があることから、かなり親しい関係であったことが想像できる。新発田市史によると、丹後寛一郎は、弘化四年(1847年)に新発田で生まれた。進取の気性の持ち主で、若いころから写真の開祖と言われる下岡蓮杖がいる横浜に出向いて写真術を覚えたという。その後、新発田に帰郷、新発田城を始め、新発田で活躍した人々を次々撮影する。

 

新発田の群像、丹後寛一郎撮影の乾板
新発田の群像、丹後寛一郎撮影の乾板

冒頭の写真は、斉藤家の倉庫で発見された乾板を撮影したものだ。軽く見積もっても、200枚以上あるだろう。

 

小林精治氏の話によると、丹後寛一郎は、大正十年八月七日 八軒町裏279番地、つまり、斉藤家にて死去している。(満七十四歳)明治初期に、丹後写真館を開業するが、跡継ぎに恵まれず、明治後期に閉鎖。その後は、嫁の実家である八軒町裏で隠居生活をした。丹後写真館が閉じるとき、嫁の実家にもかかわらず、大量の乾板を持ち込んだのは、丹後寛一郎にとっては捨てることができない、とてつもなく大事な宝物だったのだろう。

 

乾板に浮かぶ文化都市新発田の面影

2010年

12月

28日

燕尾服を着た謎の人物

5年程前、土蔵に眠っていた数多くのアルバムと乾板を夢中で整理していた。自分の家にあるアルバムの写真なのだから写っているのは、肉親だと思われるが、誰なのかわからない方が多い。100年分以上のアルバム。私は、その半分も生きていないわけだから当然でもある。この写真、燕尾服の人物も、写真の下に「本家」とだけ記されているだけである。風体から、ただ者ではないと思い興味を持ち、父や母、何人かの親戚に尋ねたが、誰なのかわからなかった。

 

それから2年後、私と同じようにルーツ探しに興味を持つ叔父・金弥と、吉原家本家のある中之島への旅に出かけた。菩提寺のある専正寺に立ち寄る。吉原家の子孫は、今は中之島には住んでいないこと、子孫の1人は新潟に住んでいたが、たまに墓の隣の畑を耕しに来ることなどの話を聞く。写真館の初代・秀齋と本家の関係を知りたかったので、過去帳の閲覧を頼んだが100年以上前なので、すぐには難しそうだった。

 


 

中之島図書館の、地元を紹介するコーナーは充実して歴史の深さを感じた。目にとまる本を手に取り次々開く。向かいで調べていた叔父の動きが、急に止まる。中之島村史を開いて、私に見せた。

 

燕尾服の謎の人物は、吉原義雄という名前だった。

 

中之島村史・下より
中之島村史・下より

2010年

12月

28日

義彦の風景画

昨年の6月(2009年)新潟県立万代島美術館の企画展に参加しているときのことだ。息子が収蔵作品のデーターベースを勝手に触って、1枚のプリントを持ってきた。”これお父さん?” 画家・吉原義彦のプロフィールと作品情報だった。”よしはら”で検索したからだろう。

 

吉原義彦は本家の親戚、治水工事に献身した義雄の長男だ。

義彦が、プロレタリア美術運動で活躍した画家で親戚であることは、中之島村史を読んで知っていたが、県のコレクションになっていることは、その時まで知らなかった。学芸員の澤田氏に、長岡の近代美術館にあることを教えて頂く。

 

義彦は東京にいるとき、落合に住んでいた。当時の落合には数多くの気鋭の文士、画家が住んでいた。そこで切磋琢磨しあっていたのだろう。しかし、義彦は、県会議員になった義雄の長男であり、後を継げば、15代目だったはずだ。どんな思いで画家を目指し故郷を出、東京に暮らしていたのだろうか? どこか自分と重なり切なくも思える。

 

数ヶ月後、義彦の絵が板橋区立美術館にもあることもわかった。それが冒頭の写真である。

 

http://www.itabashiartmuseum.jp/art/collection/ntb025.html

 


この写真は、 昭和11年4月5日、 祖父・秀長が、新しくなったスタジオで子供たちを 撮影したものだ。左から2番目が、私の父・俊雄。当時10歳。一番右が、一緒に中之島のルーツ探しをした叔父、7歳。

 

そして、壁に掛けてある額入りの絵画は、義彦のものだ。私は、この風景を、中之島大沼新田、義彦の父・義雄の改修した刈谷田川の土手を描いたのだと想像している。

 

 義彦の描いた風景画は、まだ写真館のどこかにあるはずである。子供のころに見た覚えがあるからだ。

 

中之島村史・下より
中之島村史・下より

2010年

12月

28日

本家の墓参り

いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、

撮影の理由がわかるとき、その写真は光を帯び磁場を発する。冒頭の写真、乾板の下の隅に、”昭和十一年十月六日、吉原本家” と記してある。

 

昭和10年に新発田では、大火があり吉原写真館も焼失した。

その翌年の7月、吉原写真館新築工事が始まり、10月に竣工している。当時の店主であり施主の吉原秀長は、新しい写真館の完成を先祖に報告し、また繁栄を祈るため本家の墓を訪れたのだろう。

 

5年前(2005年)、息が合う叔父と中之島の本家のルーツ探しの旅に出かけた。菩提寺である専正寺を訪れた後、若住職に、吉原家の墓の場所を教えて頂く。

 

初夏の心地良い日差し中、農道に迷い込んだ。生い茂った雑草の奥に稲穂が見える。土手を上ると、蛇行している川の風景が広がった。結局、墓を見つけられず専正寺に戻ってしまう。

 

 

 

 

 

それでは、”私がご案内しましょう”と、若住職が先導してくれ目的地・写真で見ていた本家の墓にたどり着いた。

 

 

 

それから、4年の歳月が過ぎた昨年(2009)、家族を連れて本家の墓参りにでかけた。思えば、この4年間、実に色々なことがあった。父の死、息のあった叔父の死、生まれた町に根を下ろすこと。この4年間で、一番変わったのは、自分自身かもしれない。

 

そして、一枚の写真から始まった旅は、今でも続いている。

 

 

 

※新川史眼

※大地と治水 美しい関係

※燕尾服を着た謎の人物

2010年

12月

09日

背景画のルーツ

この淡い絵画は、主に幼少期の男の子の撮影時に使うバックスクリーン(背景画)である。今では、制作業者もいなくなり大変に貴重なものになっているので修復しながら使っている。

 

吉原写真館には、20以上のバックスクリーンが残っている。

 

 

撮影サンプルをご覧ください。

 

 

 

私が美術を学ぶ学生の頃、つじつまの合わない背景画を見るたびにうんざりしていた。また、その前でポーズをとって撮影されるなんてナンセンスだとも思っていた。しかし、歳をとるにつれて、絵を背景にする肖像や家族写真の魅力がわかり、今では心から惹かれるようになった。明らかに偽物なのに、現実以上のエッセンスを想像して楽しむなんて、素晴らしい遊び心ではないか?

この背景画のルーツはどこから来たのだろうか? 最初は、日本独特の「書き割り」「見立て」「芝居」に属するものだと思ったが調べていくと、やはり西洋から伝わったようである。

 

1903年(明治36年) 三代目・吉原長平が、「次女ナルミ2歳と子守」を撮影したものだ。舞台も演技も緻密に演出されている。描かれた森、偽物の丸太、造花、二人とも実に芝居がかっている。

キャンパスに描いた背景の前に物を置いて照明、実際の光景を見るような錯覚をおこさせる見世物小屋をジオラマ館と言う。1889年(明治22)以降、東京の浅草で流行している。ジオラマ館を発明したのは、写真術を発明した人として有名なルイ・ジャック・マンデ・ダゲールである。ダゲールは、写真の研究を行う前は、パリでジオラマの背景を描く画家として活躍していた。

1839年、写真術を発明した後、自分で描いた背景画でジオラマを作り、人物を配置して撮影していたのではないかと推測する。


 

ジオラマのメソッドは写真術伝来の時に日本に入り込み、下岡蓮杖へと伝わる。元々、狩野派の絵描き、蓮杖は背景画を描くことは難しくなかっただろうし、実際、引退後背景画の仕事にしてもいる。蓮杖の弟子、江崎礼二は、浅草に写真館、ジオラマ館を作るが飽きたらず、本物の東京の光景をジオラマ化する装置、浅草12階・凌雲閣建設を推進した。

 

この写真は、KONEMANN社出版の、THE NEW HISTORY OF PHOTOGRAPHY p527 The anonymous studioという項目から参照した。他にも多くの肖像写真にページが割いてある。英語の説明には、写真スタジオが、客間等を模した背景画、造花などを配置したジオラマだったことが丁寧に書かれている。

 

母に写真館の背景画を制作した業者の名前を尋ねた。確か、”マツイ”と言ったが、10年以上前に仕事をやめてしまったと即答。また、30年以上も前に、その会社を2度程訪ねたことがあったそうだ。台東区のどこか、細い路地を抜けたところの奥に体育館のような大きなアトリエがあり、何枚もの背景画がかかっていたという。しばらくして、母が急に仕事場の戸を開けた。その会社の社長は、芸大の油絵学科卒で、画家でもあったことを思い出したという。

 

今後、写真館の背景画が傷んで使えなくなったとしたら…最後は自分自身が背景画を画くことになるのだろうか?


 

2010年

12月

07日

残存、加治川の桜

※クリックで拡大いたします。
※クリックで拡大いたします。

全国にその名を知られた「加治川の桜」。開花期には、まさに世界一の桜のトンネルが現れ、連日大勢の観桜客でにぎわった。しかし、それも今は昔。昭和41年、42年の集中豪雨によって加治川が破堤。桜が堤防を弱めたとして無惨にも伐採されてしまう。

 

写真館の玄関口の壁面には、大判サイズの「加治川の桜」が、数点掛かっている。父・俊雄が、昭和23年頃に撮影したものだ。伐採されてから40年、今でも大判写真を見つめながら加治川の桜の想い出に浸るお客さまが絶えない。加治川の桜が世界一だと言われた頃、私はまだ子供だった。桜を背景にした写真が何枚もあるので、何度となく連れて行って貰ったはずだが、覚えていない。写真を見ながら想像を膨らませるばかりである。

 

二年前の四月、地元紙・新潟日報に、「伐採を逃れて生き残った加治川の桜が、新発田市蔵光の国道290号線にひっそりと立っている」という記事が、美しい写真と共に載っていた。それを知っては、いてもたってもいられない。私は無我夢中で、その場所に向かった。 その時、撮影したのが冒頭の写真である。

 

写真館玄関口の壁面にかけてある「加治川の桜」の写真。現在でも色あせず輝きを放っている

2010年

11月

30日

吉原家のアーカイブ、そして新しい旅

このグラフィックは、吉原写真館に眠っていた乾板、フィルム、写真4500枚ほどを電子書庫化したデーターベースの検索画面である。検索キーワードに家族の名前がツリー状にセットされている。SEARCH(検索)をクリック、家族名を選び、EXCUTE(実行)すると自動的にソートされ、その人のLIFE(人生)が、時間軸上に並ぶ。吉原家140年の電子アルバムなのだ。複合検索もできるようになっているので、複数の人物が写っている写真も検索できる。

 

この吉原写真館データーベースは、乾板を発見した年の2004年に作り始めた。その後の6年間、このデーターベースの制作によって学んだこと、発見したこと、私自身の変化は計り知れない。これを作らなければ、郷土・新発田に対する興味が沸かなかっただろうし、ここにも今はいないだろう。そして、吉原写真館もなくなっていたはずだ。

 

1枚の写真を観察することから全てが始まる。名前、年代、撮影者、場所など、想像できる限りのメタ情報を加え一定の基準に従って並べかえる。その人の物語が自然と浮かび上がってくる。写真に対する興味から、その人物のいた歴史、郷土・新発田へと興味が自然と派生した。

 

吉原写真館の歴史_WEB

ナルミ_WEB

 

このデーターベース作りを始めた理由を、何度となく聞かれたことがある。”乾板に写っている写真の魅力に惹かれて整理する必要があると感じたからだ”と答えていた。しかし、実はもっと単純な話で、六代目としての自分ができるのは、そのくらいしかないと思い詰めていたからだ。新潟県の新発田という町に、五代続いた写真館があった事実くらいは伝えたいと思ったからなのだ。

 

 

 

そこから新しい旅が始まるとは、当時の自分は予測することもできなかった。私は、現在、吉原写真館の六代目として、郷土史を勉強し、町の活性化を真剣に考えている、これが私の現在の旅だ。

 

※乾板発見

 

2010年

11月

30日

早稲田大学の写真データーベース

3年ほど前、吉原写真館のホームページを公開した。

当然、多くの人に見ていただきたい。手伝ってくださったウェブ・デザイナーの友人が言うには、検索にかかるのがポイントだという。何度となく、「吉原写真館」と入力し検索をかけたが、なかなかヒットしなかった。

 

そのかわりに、興味深いウェブページを発見する。それが冒頭の早稲田大学写真データーベースだ。撮影者一覧、総数554の296番目に「新発田吉原写真館製」のキーワードがひっかかったのだ。

 

撮影者一覧へ - database.littera.waseda.ac.jp

 

さらに詳細検索テキストで、「吉原写真館」を検索する。2点の写真がヒットした。

 

http://database.littera.waseda.ac.jp/shashin/

年代から逆算すると、これを撮影したのは、祖祖父・吉原長平だろう。先代が、早稲田大学や日本の歴史に深く関わった人物を撮影しているという事実を知り深く感激した。

 

また、驚くべきは、早稲田大学のアーカイブ・システムである。

写真番号、分類、題名、撮影時期、キーワードで、検索できるようになっており簡単に目的の資料に至ることができる。また、それを一般公開して誰でも使う事ができるのにも感心した。

 

私も、写真館の土蔵にあった大量の乾板とフィルム、アルバムで、アーカイブを作り、それがいかに大事であるかを実感しているから、その価値と労力が理解できるのだ。

 

※吉原家のアーカイブ、新しい旅

2010年

11月

30日

写真術来航

この写真は、昨年(2009年)11月、下田の下岡蓮杖(しもおかれんじょう)写真記念館を訪ねた時、館のある城山公園から見下ろした下田湾を撮影したものだ。もうすぐ12月だというのに汗ばむような陽気、観光客も多く黒船を模した遊覧船が心地よさそうに運行している。

 

「太平のねむりをさます蒸気船、たった4隻で夜も眠れず」

 

これは、ペリーが軍艦4隻を率いて江戸湾に入ってきたときに作られたものだ。その後、嘉永7年3月3日に結んだ日米和親条約によって即時開港された下田湾には、4隻ではなく7隻もの軍艦が入港している。私が撮影した同じ山頂から、多くの人々が恐怖に駆られながら7隻の蒸気船を見つめていただろう。 その中に写真術を覚えるため、異人と接触する計画している下岡蓮杖もいたと推察している。

 

「毛筆の及はざるところ、ここの妙技あり。筆を折り、

刷毛を砕き呆然たるもの、数日遂に之を学ばんと決意す。」

『写真事暦』(明治24年)

 

蓮杖は狩野派の絵師だが、描写力に衝撃を受けて画家の道を断念、写真術習得に執念を燃やす。吉田松陰は、日本の未来を案じて黒船に乗ろうとしたが、蓮杖の場合は、自分を刺激するテクノロジーに強く惹かれての行動だった。

 

日本における写真の開祖、下岡蓮杖の事は以前から知っていたが江崎礼二と師弟関係だと知り、強く興味を持つようになった。なぜなら、吉原写真館の二代目・玄琳、三代目・長平、四代目・秀長は、江崎礼二に師事している。そして、五代目・俊雄は、東京写真専門学校で、江崎礼二の息子・江崎三郎に習っている。そして私は、その三郎の息子である信男氏に写真術の基礎を教えて頂いた。写真術来航から私自身まで、一本のラインがあるのだ。

 

2010年

11月

22日

城址公園の銀杏の木

子どものころの遊び場は、写真館のすぐ近くにある自衛隊の練兵所(現城址公園)だった。ここは子どもにとって、まさにワンダーランド。訓練用の山、濠、藪、櫓、この複雑な地形での”缶蹴り遊び”は、とても楽しく時間を忘れ、暗くなるまで遊んだ。また、友達が自慢げに、拾った薬莢を見せてくれたのをよく覚えている。新発田で幼少期を過ごした大杉栄も、この練兵所、つまり現在の城址公園の銀杏の木の回りを遊び場にしていた。

 

以下、大杉栄の自叙伝の抜粋である。日清戦争中の明治28年、栄が高等小学校1年の時、新発田大火があった。その体験を自叙伝で詳しく描写している。


○○○


火はまだ僕の家からは七、八町のところにあった。しかし僕はもう当然それが僕の家まで燃えて来るものと思った。

僕は家に帰ってすぐ母に荷物を出すようにと言った。近所でももうみな荷ごしらえにかかっていたのだ。「みっともないからそんなにあわてるんじゃない。」母はこう言ってなかなか応じない。

しかし火の手はだんだん近づいて来る。僕はもう一時間としないうちにきっと火がここまで来ると思った。そして母にせめては荷ごしらえでもするように迫った。「荷物は近所でみな出してしまってからでも間に合います。あんまり急いで、あとで笑われるようなことがあってはいけません。まあ、もう少しそこで見ていらっしゃい。」 母はこう言いながら、しかし女中には何か言いつけているようだった。そしてしばらくして僕を呼んだ。「もういよいよあぶないから、お前は子供をみんなつれて立ちのいておくれ。練兵場の真ん中の、あの銀杏の木のところね。あそこにじっとしているんだよ。いいかい、決してほかへは行かないようにね。」 母はふろしき包みを一つ僕に持たしてこう言った。そしてすぐの妹に一番下の弟をおんぶさした。 西ヶ輪を真っすぐに行けば、三、四町でもう練兵場の入口なのだ。練兵場にはもうぼつぼつ荷物が持ちこまれてあった。僕等は母の言いつけ通り銀杏の木の下を占領した。


○○○

 

栄が大火の時に避難した、また遊び場にしていた「銀杏の木」が、

今でも新発田市の城址公園に残っている。それが冒頭の写真である。

 

ここ数年、この銀杏の木は病気がちで、多くの新発田市民が心配そうに見つめている。緑色の葉をつけることさえしなくなった。しかし樹木医の手が入り、最近は多少持ち直したようだ。また、史実に触発された若者が、この場所で音楽祭を開いたりもしている。新発田には、まだ、栄が大事にした自由の魂が息づいている。

 

自叙伝によると大杉は、新発田で過ごした10年間に12回の引っ越しをしている。また、大火のあった明治28年は、西ヶ輪に近くに住んでいた。自叙伝から、赤い丸のあたりに住居があったと推定している。


また、明治28年の大火の時に、栄がどのようなコースで避難したかを、昭和10年の新発田大火の写真で辿ってみた。この写真にも銀杏の木が写っている。

 

*西ヶ輪

新発田城本丸の「西曲輪」がなまって町名となった藩士屋敷であったが、昭和37年の町名整理・住居表示の実施により大手町に変更された。

 


※大杉栄の写真



 

2010年

11月

17日

ロッカー製のタイムカプセル

今年の、4月の事であるが、小学校3年の息子の参観日に行った。クラスでの様子を見に行ったのだが、実は秘密の目的があった。


 

私が小学校6年生の時に絵を描いたタイムカプセルがまだ大事にしまってあると聞いたからだ。そのタイムカプセルは、1970年の大阪万博のタイムカプセルを真似て、1972年の外ヶ輪小学校80周年の記念行事で作った。その時から20年後の100周年の記念行事の時にタイムカプセルの中身を公開したという話は、かなり後になってから聞いた。私は生意気ぶってビートルズのレコードを入れたような気がするが、よく覚えていない。

 

このの写真が、みんなで作ったタイムカプセルだ。

記憶の中では、金庫のように頑丈だと思っていたのだが、今にしてみれば、小型のロッカーを元にしたもので実に貧弱なモノだった。


 

裏側には、年代と趣旨が大きく書いてある。

また、”お世話した人””絵を描いた人”も記してあった。

 

タイムカプセルを校内で探している時に、もう一つ素晴らしい感動があった。それは旧校舎の手摺りと瓦屋根の鴟尾(しび)が大事に保存されていたからだ。

 

新しい建物を建築する時、多くの場合、壊される建築物の事を忘れがちである。瓦屋根と鴟尾、そして、僕たちのタイムカプセルを残してくださった先生方々に深く感謝したい。

 

 

2010年

11月

14日

神明橋から観る未来風景

※クリックで拡大いたします。
※クリックで拡大いたします。

冒頭の写真は、神明橋・下町の風景で大正時代に撮影された。柳の下、橋の親柱に神明橋と記してある。この時代の運搬は、神明橋の下を流れる新発田川の水運と人力に頼っていた。川の近くの街道に市場がたち、人が集まった。

そして、これは昭和初期に同じ場所から撮影されている。
神明橋の親柱がコンクリート製に変わっている。
ひときわ目立つ洋風の建築物は新潟銀行支店である。商業都市として栄えた新発田には現在でも数多くの銀行の支店がある。

この商店街の風景は昭和10年の大火によって失われることになる。

昭和10年の新発田大火
昭和10年の新発田大火

焼け跡の中に新潟銀行支店が焼け残っている。

そして、現在の平成22年11月12日、同じ場所から撮影した。神明橋、新発田川、街道は、形を変えながらも残っているが、残念ながら下町商店街は寂れ、シャッター街と化している。
 
私が歴史探索を始める前は、明治、大正と聞くと、遠い昔のことのように思ってが、今では、ほんの少し前の出来事のように感じている。神明橋から下町通りを撮影した三枚の写真は100年以上の時間の隔たりがあるわけだが、風景からの変化に注目しても眼を見張るものがある。実際10年でも、世の中は随分と変わってしまった。

果たして、この先、20年、100年、この街の風景はどのように変わるのだろうか?

一つだけ確信を持って言えることがある。一度失ったものは二度ともとには戻らないということだ。未来に残すべきモノは何か? 神明橋から下町商店街を見つめながら自問自答する。

 

※模型でできた城下町

2010年

11月

09日

父の背中と秘密基地

想い出の秘密基地
想い出の秘密基地

3年前、小学校の入学式に父親としてに参加した。初々しい一年生が整列する後ろに座りながら、35年以上ぶりに外ヶ輪小学校の校歌を聴くことになった。外ヶ輪小学校の校歌は妙に高音が耳に残る。そのサウンドが記憶を刺激し、とりとめのないイメージが次々と現れる。式のあった小学校は自分がいたころの木造とは全く違うモダンな建築物へと変わったが、校章、歌、場所が同じため不思議な気分に陥った。

一人、会場を出て探索を始める。もしかすると先生に呼び止められるのではないかとか考えながら恐る恐るグランドに向かう。錆が目立つ派手な色のブランコと遊具が、強引にロープで縛り付けられてある。”きけん”の表示。その先にあるコンクリートの遊具のようなモノが気になって近づく。瞬間目を疑った。子どものころの遊び場であったコンクリートの秘密基地だったからだ。入学式に参加している妻にカメラを預けて来たことを後悔した。

そして、この写真は、昭和22年、亡き父・俊雄が22歳の時に撮影したものだ。父のアルバムから見つけ出した。秘密基地の上で帽子を振っているのは昭和天皇、ご巡幸である。人前にでるのが苦手と自負する父は、”カメラがあれば怖くない、天皇陛下だって撮ったんだ”と言ってのを覚えているが、それがこの写真だろう。の壁面が墨で乱暴に塗りたくられているのは、空襲を避けるための迷彩なのだそうだ。何度となく色々な先生から聞いたのでよく覚えている。


発見の感動から恥ずかしながら3年後の昨日、ついに秘密基地をカメラに収めた。 まだそこにある事に感謝しながら。 それが冒頭の写真である。

しばらくして、その秘密基地がなんのために作れたのか、なんという呼び名なのかを無性に知りたくなり、新発田市史、郷土史などのページを次々とめくった。

2年ほど前に出版された郷土出版社の”ふるさと新発田”に、ご巡幸の写真を発見、説明書きを貪るように読む。秘密基地は、遊具ではなく国旗掲揚のための台であることを知る。納得しながら写真を観ていると一瞬戦慄が走った。

何故なら、昭和天皇を撮影しているカメラマンは、当時22歳の父・俊雄だったからだ。

 

※ 次の日、この写真を撮影したのは、新発田市内で同業を営むサンチャン写真館の高橋さんの父であることがわかる。早速、ブログで使わせていただくことを快諾していただいた。さらにこの国旗台を、新発田の宝として残すために壊さずに残す運動を共にすることを約束する。高橋さんも同じ小学校を卒業していたからだ。

2010年

9月

11日

一番高いビルで撮影された家族写真

※クリックで拡大いたします。
※クリックで拡大いたします。

旅が好きだ。新しい街に行くと、最初に高いビルや塔に登る。その街の構造が俯瞰で見えるからだ。シカゴならシアーズタワー、パリならばエッフェル塔、バチカンではサンピエドロ宮殿、
そしてニューヨークならばエンパイア・ステート・ビルディング、ここは何度となく訪れた。
 
この写真は、今年の2月、ニューヨークに家族で行ったとき、エンパイア・ステート・ビルディングの最上階102階からマンハッタンの南を撮影したものだ。自然と自分が徘徊していたブルックリン、SOHOの方向に眼が行ってしまう。ニューヨーク・シティ湾中央に浮かぶ自由の女神を探し、そして南端に ワールドトレードセンターがないことを再確認し溜め息をつく。
 
ここ数年、ニューヨークを訪れる観光客は倍増したらしいが、朝早く行ったにも関わらず長蛇の列。その上、凄惨な事件から9年もたつのに、飛行機の搭乗手続き並みのセキュリティーだからなおさらだ。シーズンオフの極寒の2月だというのに家族連れが多い。英語の他、スペイン語、フランス語、韓国語、日本語が聴こえてくる。ぼんやりと進んでいると突然、摩天楼の写真を背景にしたステージのようなところへ急に出た。早口の英語で、中央に行ってポーズをとるようにせき立てられる。フラッシュが閃光する。時差ボケせいか反応が鈍く、言われるまま撮影に応じてしまう。 これは、撮影してから短時間の間にプリントして売りつけてくる新種の写真ビジネスなのだ。家族全員が写っているので、それはそれで貴重だ。しかし30ドルと言われ、少し躊躇し購入を迷っていると、妻の”押し売りの家族写真は必要ないわ!”その一言で目が覚め、丁寧に断った。

その販売員は簡単に了解し、次のお客に売り込む準備を既に始めている。私がその写真がどうなるのか気になり眼で追う。まるでプロのバスケット選手のフェイクパスのように、その家族写真を簡単にゴミ箱に投げ捨ててしまった。そんなに簡単に捨てないで!と心の中で思わず叫んでしまう。

これは1982年の28年前、私が留学していた時に、ワールドトレードセンターの最上階から撮影した写真である。この時点では、ここのビルが、ニューヨークで一番高いビルだった。遠くにエンパイア・ステート・ビルディングが浮かび上がっている。

2010年

8月

31日

スラント式の北窓

吉原秀長、スラント式窓工事にて   昭和11年
吉原秀長、スラント式窓工事にて  昭和11年

昭和10年、新発田町の3分の1を焼き尽くす大火があり、吉原写真館も土蔵を残し焼失した。翌11年には街の至る所で新築工事が始まる。

この写真は、写真館スタジオの棟上げ式が無事にすんだ直後に撮影されたものと思われる。中央、スラント式窓枠に乗ってこちらを見ているのは、私が18歳の時に亡くなった祖父・秀長、そして屋根の上にはた大工が12名。

現在はストロボ光がメインになったが、昔は自然光を使うしか方法がなかった。祖父の立っている傾斜式窓枠は、スタジオに安定した照度が得られるように大きく設計されている。画家のアトリエと同じように北側窓で安定した自然光が降り注ぐ。


吉原写真館のスタジオには、このスラント式窓がそのまま残っていて自然光の撮影、ミックス光撮影に活躍している。しかし良い事ばかりではなく、昔ながらの作り3mmガラス1枚なので、保温性が悪く、夏暑く、冬寒い環境、お客様から、”もう少し暖かくならないのか?” ”涼しくならないのか”と何度となく問われ、冷房、暖房を強めたりしたが、なかなか効果が上がらず困っていた。その上、7月頃の強風で、ガラスの一部が破損し、雨が漏ってくる始末。

スラント式窓の修復工事  2010年夏
スラント式窓の修復工事  2010年夏

そこで今年の夏、思いきってこの大型の傾斜窓の修復工事を行うことにした。最初、サッシ屋に見積もりを出して貰ったが、思いの外お金がかかることがわかり断念。昔からの友人の建築家・ヨコミゾマコト氏に相談を持ちかけた。コーキングに頼らない水じまい、空気断熱の有効な方法を詳しく教えて頂いた。そのアイディアを元に、外側はガラス、15mmの間を開けて室内側にツインカーボを張る工事を懇意な大工にお願いし、無事完成することができた。

スタジオは天井が高く広いので、冷暖房に時間がかかるのは同じだが、それでもかなり効率がよくなったはずだ。

これからはご予約頂ければ、1時間前には、冷暖房のスイッチを入れ、快適なスタジオでお客様をお迎えいたします。_(._.)_

2009年

10月

06日

義民・与茂七の書

水上勉の書、与茂七
水上勉の書、与茂七

正徳三年(1713)、義民・大竹与茂七は無実の罪を着せられて新発田の郊外で処刑された。与茂七は、関係者を呪う恨みの言葉を残したという。その後、この件に関係した役人たちは次々と気がふれて狂い死にし、続いて新発田の街の大半が焼けるという大火事にみまわれた。

新発田大火   昭和10年
新発田大火 昭和10年

人々は、これは与茂七の祟りであるに違いないと言いだし、この火事を「与茂七火事」と呼ぶようになった。1935年(昭和10年) 9月13日にも、新発田町の3分の1を焼き尽くす大火があったが、その時も与茂七の恨みではないかと噂がたったと言う。

私は、新発田大火の写真を整理しているときに、「与茂七火事」の言い伝えを知ったのだが、印象的なので、心に強く残っている。諏訪神社の五十志霊神に頭を下げるようになったのは、その史実を知ってからである。

 

※新発田の諏訪神社境内に「五十志霊神」という名の社を建てて与茂七の霊を慰めている。これは、新発田藩が、与茂七が無実の罪であることを認めたときに作られた。

中之島にある、義民・与茂七の墓
中之島にある、義民・与茂七の墓

ある日、大杉栄の会のS氏が、ふと訪ねて来た。手に、賞状入れの筒を持っている。氏はおもむろに筒から書を取り出して広げた。”与茂七” 水上勉 と書いてある。そして、氏は、”中之島出身だと聞いたので、興味あるかと思い、、、よかったらあげます”と。水上勉氏は生前、義民・大竹与茂七の戯曲を書いた。その時、記念のお酒も造っており、そのラベルとして書いた3点の内の一点なのだそうだ。戸惑いつつも、手にとり、この書を生かすことができるのかと自問自答しながら、強く興味があったのだろう、ちゃっかりと頂いてしまった。

それから数ヶ月後、中之島村在住の高森氏よりお借りした水郷三沼の史によって吉原家の本家の先祖が、与茂七裁判に名主として関わっている事を知り愕然とする。

高森氏の”安心してください、吉原太一郎、吉原右ェ門、両氏は、中間の立場に立ち与茂七に恨まれるようなことはしていませんから、、。”という話を聞いてホッとする。

水上勉氏の書、与茂七は、額に入れて、写真館内に飾る予定である。

与茂七裁判のくだり_水郷三沼の史6P
与茂七裁判のくだり_水郷三沼の史6P

2009年

9月

30日

大地と治水 美しい関係

映像作品タイトル   新川排水機場に設置される大型ポンプ
映像作品タイトル   新川排水機場に設置される大型ポンプ

「お米一粒に千人の神様がいるんだよ、お米を一粒残さず食べなさい」と言ったのは母だったのか小学校の先生だったか覚えていないが、新作映像“水稲史眼”撮影のためにカメラを回しているときに、この話を何度となく思い出した。この新作は、新川掘削の史実に触発されて制作した“新川史眼”の続編である。撮影は4月のから始まり、5月の田植え、6〜8月の成長期、9月の稲刈りまで続けた。

稲の成長を撮影するのは初めてなので実に新鮮だった。
豊穣な大地”、緻密な治水システムとしての川、それらの美しい関係は作品化しようとしていなければ気がつかなかっただろう。

今年の夏、2年ぶりに長岡市中之島を訪れた。“水稲史眼”の編集を始める前に、吉原家3代の記恩碑を今一度拝もうと思ったからだ。この碑は信濃川治水の会の中心メンバーとして分水工事に功績を残した吉原義雄、その父・由太郎、祖父・源太3代に恩義を報おうと中之島大沼新田の住民が建てたものだ。
この3代は吉原家の本家にあたり大沼の地主だった。

地主といえば聞こえが良いが、住民を食べさせていかなければならない責任があり、私財を使って分水工事をするのは必然だったようだ。戦後、GHQの指導の下で農地解放があり農業の近代化が始まる。義雄の三男の静雄は、農業の発展に尽くし全国レベルの農協組織の役員まで務めた。これは中之島在住の高森精治氏から聞いたばかりの話である。高森氏は長い間、吉原静雄と共に仕事をしており記恩碑の隣にわかりやすい説明パネルを設置することを率先した人でもあった。高森氏にお借りした本「水郷三沼の史」によると、吉原家はその地に14代続いており、初代吉原九兵衛が中之島の地に来たのは、今から370年前、豊臣と徳川の戦いの時代にまでさかのぼる。荒れ地だった中之島の大沼を開拓し何年もの歳月をかけて新発田藩(中之島は当時新発田藩であった)の許しを得て地主になった。このような史実は、中之島大沼だけでなく開拓された土地・新潟の歴史をひもとけば、いくらでも出てくるだろう。

吉原家三代を祀る紀恩碑     田植えの準備
吉原家三代を祀る紀恩碑    田植えの準備

私が新潟県の川をテーマにした映像作品は、“水稲史眼”で5作目になった。なぜ川に惹かれるのか不思議に思いながらものめり込み、ついには義雄の手がけた川の改修や静雄の努力により整備された田んぼで、先祖の霊に導かれている気分になりながら撮影ポイントを探している自分がいた。

”水稲史眼”は新川河口排水機場(新潟市西区内野)に大型ポンプが設置されるシーンから始まる。今年の4月22日の事だが、
水稲地区新潟を守るために長い間働くことになる。県内で働いている排水機用のポンプは大小あわせると400以上あるという。雨の季節など、これらのポンプがフル稼働して強制的に排水をする。仮になんらかのトラブルでポンプが止まれば、豊穣な新潟平野は元の潟か海に戻ってしまうのだろうか?



■映像インスタレーション“水稲史眼”は、西区DEアート(2009:9月26日−10月11日まで)の期間中、静田神社(新潟市西区内野)で、ふるさとしばた「食」と「職」のおまつり(10月10日-11日)では新発田市地域交流センターで、それぞれ上映された。


この文章は2009年9月30日新潟日報文化欄に掲載

2009年

9月

05日

見慣れた新潟 異質な視線で

新発田川上の公設市場で撮影するアンドリュー・フェルプス
新発田川上の公設市場で撮影するアンドリュー・フェルプス

人は、どのような気持ちになった時、カメラを構え写真に残そうとするのだろうか? それは、目の前に展開する光景を記憶にとどめたい、大切な人に伝えたいと望む時なのではないだろうか? 私だけでなく多分誰でも初めて訪れた旅先にはカメラを必ず携帯し、目に留まる風景があれば写真に残そうとする。しかし自分の生活圏では、見慣れた風景に囲まれているせいか、カメラ自体を持ち歩かないし、輝く光景があったとしても見過ごしがちである。

撮影:アンドリュー・フェルプス
撮影:アンドリュー・フェルプス

完成した写真集、「日本に向けられたヨーロッパ人の眼・ジャパントゥデイvol.11_新潟県」を見ると、見慣れた新潟の光景が、3人の写真家の優れた感性と技術によってエキゾチックに浮かび上がっている。

オーストリア在住のアンドリュー・フェルプスは、グローバル化することによって失われていく光景を写真集にして評価されているが、そのまなざしに捉えられた現在の新潟のジレンマが美しく浮び上がっている。アンドリューの場合、特にアメリカ出身ということもあり、どこを訪れてもアメリカのリードするグローバリゼーションの及ぼす影響に違和感じ、そのひずみに目がいってしまうのだろう。

撮影:アルトゥーラス・ヴァリャウガ
撮影:アルトゥーラス・ヴァリャウガ

リトアニア出身のアルトゥーラス・ヴァリャウガは、主に”食”に絞って撮影をしたが、年配の女性が味噌を作るために働き続ける姿を「まるで日本舞踊をみているようだ」とコメントしている。泥のついた大根の入った発砲スチロールの箱を背負う後ろ姿は、われわれには見慣れた光景だが、まるで映画のワンシーンのようである。

撮影:ハンス=クリスティアン・シンク 
撮影:ハンス=クリスティアン・シンク 

ドイツ出身の、ハンス=クリスチャン・シンクは、一貫して風景をテーマにしているドイツを代表する写真家である。
新潟へ来る前は荒々しい日本海、長く続く高速道路を撮影しようと計画していたようだが、訪れた阿賀町の山村の集落の美しさに魅せられたようで、2週間近く、そこに滞在して山村の撮影を続けた。雪の残る畑、山間の道、雪囲いの庭を優れたコンポジションによって美しく描き出す。

 

今回の写真プロジェクトをディレクションしたインディペンデント・キュレーターの菊田樹子さんから興味深い話を聞いた。写真のテーマも違い、個性の違う三人の写真家が同じように答えた事があるというのだ。三人とも、新潟県の観光案内やガイドに載っているような観光地に、なんの興味をしめさなかった。三人とも自分たちの足で歩き人に触れて感じるままの新潟を撮影することを要望したというのだ。
私は仕事柄いろいろに国を旅した経験があるが、そこの国の人が見向きもしない風景を撮影して驚かれた経験がなんどもある。工事現場の標識であったり、野菜や魚の並ぶ市場だったり、洗濯物を干した路地の風景に感動して撮影したりしているからだ。それも異国情緒の一種だろう。その国ではごくありふれた光景が、とても魅力的に見え撮影してしまうのだ。私も観光名所よりも、その場所にしかない日常の風景に多くの場合魅せられてしまうところがあるので、三人の写真家の要望がよく理解できた。

この写真集は、三人の感じた新潟の“今”が、優しく、批評的に描かれている。来年、ヨーロッパ、そして新潟での巡回展が準備されているが、どのような反応があるのか大変に楽しみにしている。

※アンドリュー・フィリップ


この文章は、2009年9月5日新潟日報_文化欄に掲載された。

2008年

7月

03日

乾板に浮かぶ文化都市新発田の面影

“写真  筆に書く、絵たくみよりも、目の前に、たまもてうつす、かけそさやけき”
“写真  筆に書く、絵たくみよりも、目の前に、たまもてうつす、かけそさやけき”

子供の頃の遊び場は茶の間だった。テレビが置いてあったし、必ず誰かが居たからだ。冬などは歌番組に夢中になり炬燵の炭で靴下を焦がしたりもした。炬燵に足を入れ仰向けの姿勢で裸電球や天井の木目をぼんやりと眺め、床の間の逆さの”謎の掛け軸”を見つめていた。書の美しさには惹かれたような気がするが、なんと書いてあるのかはさっぱりと解らなかった。

その頃から40年経ってようやく、その書の作者の事を知ることになるとは実に不思議な事に思える。

3年程前の事になるが、写真館の土蔵から吉原一族の肖像や見慣れない建築物や掛け軸が写った1000枚の乾板(昔のフィルム)を発見した。メモから明治、大正まで遡るものもあることがわかったが、そのクオリティは非常に高く現在の写真技術にひけをとらないどころか優れているように思えた。

その後、図書館に通い調査に没頭する中で、わが家の茶の間にある掛け軸の作者が、初代新発田町長・原宏平の書であることを知ることになる。 宏平は新発田町長でありながら文化人、
一日千首吟詠で高名な歌人でもある。この掛け軸の書は、宏平が新発田で最初に開業した丹後写真館を訪れ、写真を撮って貰ったときの気持ちを詠ったものだったのだ。

五階菱の紋付きを着た初代新発田町長 原宏平 1910 撮影:丹後寛一郎
五階菱の紋付きを着た初代新発田町長 原宏平 1910 撮影:丹後寛一郎

“写真  筆に書く、絵たくみよりも、目の前に、たまもてうつす、かけそさやけき”

写真の描写力への感動が伝わってくる。諏訪神社の近くにあった丹後写真館は明治時代、新発田で多くの写真を撮影したが一代で写真館を閉鎖した。推測ではあるが、掛け軸はその時に私の祖父秀長が譲り受けたものと思われる。一ヶ月程前、新発田の歴史探索を始めた頃出会った、しばた台輪・わ組会の会長・小林精治氏が、丹後寛一郎・撮影の乾板100枚を吉原写真館に持ち込んだ。小林氏は、わ組の歴史に関係がある下町・神明宮の乾板を調べているうちに、丹後寛一郎にぶつかり、乾板を保管していた子孫に行きついたのだという。この乾板が残っていたこと、隠れている映像を想像して、氏と私は興奮した。

大倉喜八郎          新発田城三階櫓
大倉喜八郎          新発田城三階櫓

昨日、その乾板の画像化が終わったのだが、“丹後寛一郎”“大倉喜八郎”、 “明治政府の廃城令で取り壊された新発田城”等が写っていた。誰の写真かわからないものも多いが、全て新発田の歴史に深く関係する人物の写真だと思われるので、これからの調査が楽しみである。

原宏平が丹後写真館で唄った書の掛け軸は、今も同じ場所、茶の間にかけてある。その由来が解らなければ単なる古いモノでしかなかったのに、それを知ってから特別な宝物に見えてくるのは実に不思議な事である。重厚な記憶の蓄積の上にある新発田には、
同じように特別な宝になるべきモノが、発掘されないまま、そして未編集のまま色々な所に散在しているのだろう。

ここ数年の間、新発田でも古くからあった建物や土蔵が壊され続けている。それを見る度に、宝となるべきモノが建物と一緒に失われていているのではないかと思い胸が痛む。

現在、宏平の流麗な草書を見ながら、眠っている宝をどのように探しだし未来に繋げれば良いのか思いめぐらせている。

この文章は、2008年7月 新潟日報社発行の ”新潟文化”に掲載された。

2008年

5月

02日

二人の仏教徒

東京蔵前 ギャラリー空連房         新潟 正福寺の音楽イベント
東京蔵前 ギャラリー空連房         新潟 正福寺の音楽イベント

何年前か覚えていないが、NHKの衛星放送の特集番組に、著名な写真家・篠山紀信氏が出演していて自分の生い立ち、現在の仕事を選んだ経緯を淡々と語っていた。
氏がインタビューを受けていた場所は、心地よい光が差し込む寺の境内。そこに座り、中空を見つめて回想する光景がテレビに映る。自分が写真家になった理由の一つに、実家が寺であったことを強く主張していた。幼児体験の一つとして、雨戸を開けた瞬間に降り注ぐ光に浮かびあがる阿弥陀様に魅せられたこと、寺という空間が生み出す光と闇のドラマが現在の自分の感性を作り出したと自己分析していた。

私はその時、30年来の友人・東京蔵前に400年続く長応院の現住職のT氏のことを自然に思い起こしていた。なぜならば、今は寺の仕事を継ぎ住職の仕事が天命のごとく専念しているが、写真というメディアに取り憑かれて、20年以上の間、ニューヨーク、ロサンゼルスを徘徊しているのを隣にいるがごとく見詰めていたからだ。

細かい経緯は覚えていないが、T氏は高校時代に写真の魅力を知り、18歳にてニューヨークの美術大学に留学、写真を専攻する。
私と出会った22歳の頃には、すでに独特の写真美学と論理を身につけていた。年齢が同じこと、私の実家が写真館であったこともあって気が合い、週末などは夜遅くまで写真・美術・音楽の話に夢中になっていた。話題の中の一つに、寺の役割とは何か?
写真館の役割とは何か?という実家の家業についても何度か話し合った。その時に私たちが出した答の一つは、寺も写真館も共に町を構成する要素の一部であり、公共性があるということだった。現在では寺は法事を司るだけの場所というイメージがあるが、その昔は、市役所や学校の役割を果たしていて最も公共性の高い場所だったのだ。

2年前、突然、T氏から電話がある。
写真を展示するための画廊空間を長応院の境内の中に企画して欲しいとことだった。檀家はもちろん、それ以外の人にも、自分のコレクションした写真を公開して、仏教の根底に流れる真理を伝えていきたいとも言う。その画廊の名前は、彼の戒名の一部を使い“空蓮房”と名付け、現在も展示活動が続いている。

そして同じ頃、音楽関係の友人を通じて新潟・西堀通にある
正福寺の跡継ぎであるK氏と知り合う。氏は、独特の魅力で若者を集め、独自のネットワークで次々と音楽イベントを企画し成功に結びつける。寺の仕事が暇な時期などは、まるで何かに取り憑かれたように寺を使って音楽会を企画する。特に宣伝しているわけではないのに、寺に60人以上の若者が屯して音楽に真剣に耳を傾ける。それまで互いに知らなかった者同士が、音楽と場所を共有することにより自然に一体化する。東京でプロの美術家として数々のイベントを企画した経験がある私にとっても、K氏は刺激的な存在になっている。

“画廊スペースを境内に作り写真展を企画するT氏”、“寺で音楽会の企画をするK氏“ 仏教徒二人の活動を重ね合わせると滲み出るように“公共”とう言葉が浮かびあがる。本来、この世の物質全て、誰のものでもない。その物質を滞らず流し続けなければ、この世は破綻をおこす。その流れを作る仕事が仏教徒の仕事だと、二人は直感しているように思えた。

2008年

2月

15日

大渋滞新潟は遠く

黒煙は、震災で燃える昭和石油 旧七号線から新潟を見る   撮影:吉原俊雄
黒煙は、震災で燃える昭和石油 旧七号線から新潟を見る 撮影:吉原俊雄

現在は新新バイパスと高速道路があるので、新潟を随分身近に感じるが、昭和30年代、私の子どものころ、新潟はとても遠いところだった。

新潟には母の実家があり、盆、正月等の都度も連れて行かれたが、必ず旧七号線木崎経由のバスだった。冬は、消雪態勢が整備されていなかったこともあり、渋滞が多く、新潟へ行くのに2時間近くかかることもあった。

いつだったか、間違えて葛塚回りのバスに乗ってしまった。
いつ着くのか何度も母に尋ねたが答えてもらえず、しまいには叱られる始末。揺れとにおい、延々と変わらぬ風景を見続け、極度の不安で気持ち悪くなってしまったことを覚えている。

この写真は、昭和39年6月16日、新発田の旧道7号線上、車の中から新潟方面を父が撮影したものだ。黒煙は大地震により火災した昭和石油のタンクである。一昼夜通じて燃え続けたという。アルバムには、ほかにも新潟地震の現場写真がたくさん貼られていたが、あえて新潟へ向かう途中の、この写真を選らんだ。雪の日でさえ渋滞した当時、震災日新潟へ簡単に到達できるわけがない。
道中、父が、何を見て、何を感じていたのか、この写真は私の想像力をかき立て、間違って乗った葛塚経由の冬のバスを思い起こさせた。


この文章は、2008年2月15日新潟日報_想い出写真手帳_吉原写真館編に掲載された。

2008年

2月

14日

不安な一夜が明けて

* 第2室戸台風を調べると、新発田市では全壊1052棟、半壊991棟とある。新潟を襲った最大の台風だった。さぞかし恐ろしいことだったと思う。
* 第2室戸台風を調べると、新発田市では全壊1052棟、半壊991棟とある。新潟を襲った最大の台風だった。さぞかし恐ろしいことだったと思う。

昭和36年9月16日、台風第18号(第2室戸台風)が新発田を襲った。この台風は主に近畿地方に大きな被害を与えたが、大雪には慣れていても、台風に慣れていない新発田人にとっては、忘れられない史実であるようだ。

当時、私は1歳で何も覚えていないが、祖母のアルバムを見ると十枚以上の台風被害の写真が貼ってある。瓦が吹き飛ばされ剥き出しになって垂木が露出している屋根、崩壊しかけた台輪、倒れ込んだ大きな木に破壊されたブロック塀、瓦の破片が飛び散るアスファルト道路、それらの写真を見るといかに被害が甚大であったか、大変な事だったかを知ることができる。それらは貴重な写真と思われたので、この紙面に使うことを何度か考えたが、結局、
この写真を選んだ。次の日に撮影された掃除の風景で、手前から、3歳の姉、祖母、そして隣の靴屋の篠崎さんである。

母に当時の様子を尋ねたところ、台風が来ているときは、家の中にいても生きた心地がしないほど不安だったこと、また、台所の床下にあった穴蔵に水が貯まり、掃除が大変だったことなどを思い返すように話すのだった。

この文章は、2008年2月14日新潟日報_想い出写真手帳_吉原写真館編に掲載された。

2008年

2月

13日

熟練技術で仕上げ

写真館の仕事は撮影の仕事が主のように思われがちだが、撮影後の仕事も重要であり手間がかかる。フィルムの現像、プリントという行程はよく知られているが、他にフィルム修整とプリントのスポンティング(仕上げ修整)という作業ある。これが大変なのだ。フィルムの修整は、そこに写る図像が小さいことやネガポジが反転しているため熟練した技術が必要で主にベテランが担当する。

プリント後のスポッティングは、主にプリント時にフィルムに付着する埃による白抜けの濃度を合わせた墨を細い毛筆でレタッチする作業である。この写真の、祖母や母らが掘りごたつで黙々と働いているのは、スポッティングをしているところである。そこは幼少期の私の遊び場の一つだった。

確かミカンだったと思うが、持って入ろうとしてして父にこっぴどく叱られたことをくっきりと覚えている。後になってわかったことだが、柑橘類の成分が写真を変色されため、写真の作業場への持ち込みは御法度だったのだ。現在、アルバムを開き、この変色しない写真を見つめ「あの時」を思い出している。

この文章は、2008年2月13日新潟日報_想い出写真手帳_吉原写真館編に掲載された。

2008年

2月

08日

街に溶け込む提灯

昨年、夏の終わりを告げる風物詩・新発田祭りの帰り台輪を久しぶりに堪能した。かなりの人手で、これほど多くの人がどこから来たのかとも思えるほど。これだけ伝統的なイベントが現在まで続いていることに感心もした。

しかし、気になったことが一つある。諏訪神社近くは比較的暗いため、台輪も引き手も、提灯の幽玄な光に幽玄に浮かびあがって美しく、クライマックスの一つ、”あおる”姿も勇ましく見える。しかし、交差点を過ぎアーケードのある通りにさしかかると、蛍光灯の均質な明るい光に照らし出され、
陰影をなくした台輪は本来持っていたマジカルな力を失って見え弱々しく見えてしまうことだ。せめて、台輪が通る時間だけでも、アーケードの街頭を裸電球にする等の演出をしてはどうだろうか、と考えるはわたしだけだろうか?

今回選んだのは昭和30年代の帰り台輪の写真である。これをよく見ると帰り台輪には全く違いはないが、とりまく環境が違っているのに気づく。特に光に注目するが、街灯、室内の光の明るさが台輪の提灯とほぼ同じため互いに雰囲気を醸しだし独特の空間になっているのだ。

*これだけの演出をわずか一夜にして設置するディレクション(仕切り)は誇るべきだ。私には、祭りの演出とディレクションの中に、商店街再生のヒントがあるように思えるのだ。

この文章は、2008年2月8日新潟日報_想い出写真手帳_吉原写真館編に掲載された。

2008年

2月

07日

9年間、同じ学びや

前シリーズを書いた建築写真家、高校生の大竹静市郎氏が、
東京の撮影に夢中だったころ、私は外ヶ輪小学校に通う小学生の低学年だった。この写真を見ていると、色々な思い出が走馬燈のように蘇る。なぜなら、学校の右半分が、外ヶ輪小、左半分は本丸中学で、外ヶ輪小学校の卒業するとそのまま左側の中学校に入学。合わせて9年間同じ校舎通い続けたからだ。

その思い出の一つ。運動靴をなくして、何日間か裸足でいたことだ。記憶は曖昧なので、悪戯されたのか、どこかに置き忘れたのか。冬の凍てついた廊下の板張りが、足の裏を突き刺す感覚だけがわずか残っている。運動靴をなくしたことを親に言えば良いのに、叱られることを恐れてか言い出せず後ろめたい気持ちと一緒に数日間登校した。

思い出をもう一つ、中学校の時の冬、生徒の間で、二階の窓から飛び降りるのが流行り、自分も一度だけ試したことがある。3メール以上雪が積もっていたので皆安全だと思っていたのである。数日後、よそのクラスのだれだったろう、雪に埋まった鉄棒の上に飛び降りてしまいケガをした。この遊びは禁止になった。こんな思い出でばかりが浮かび上がってくる。

*学校アルバムに撮影されたもので、青空に白い雲、白壁に映えるこの美しい校舎は建てかえられたが、正門なでは昔のまま残っている。

この文章は、2008年2月7日新潟日報_想い出写真手帳_吉原写真館編に掲載された。

2008年

2月

06日

文化薫るふるさと

吉原写真館の玄関前である。向かいが近医院。右隣が饅頭屋、その隣が薬屋、左隣が篠崎靴屋。遠くに見えるのは懐かしい銭湯アヤメの湯。煙突の下には、大鋸屑が山のように積んであり、近所の子供仲間で埋もれながら遊んだ。

この写真の19年後、21歳に成長した私はニューヨークのPratt Instituteという美術大学に奨学金を得て留学した。それから25年ほど、実にいろいろな国を旅したが、そこでできる友人はみんな、自分の町を大切にする人ばかり。インターナショナルだと思っていた町は、実はローカリズムと濃厚な文化に満ちているのだった。

私が上京し、海外に行ったのは、若気の至りで新発田には文化がないと信じていたからなのだから、それは大きな間違いで、文化の根源はここにこそ残っていたのだ。人が生活するところには工夫が生まれ、時間が蓄積することによって文化へえと変容する。

歴史ある町新発田だから、文化に満ちているのは当然のことだ。

*昭和38年6月くらいの写真で、右2歳、左が4歳の姉、父が撮影したものだ。白黒写真に写し取れたまばゆい光。「あのころ」があふれていれる1枚だ。

この文章は、2008年2月6日新潟日報_想い出写真手帳_吉原写真館編に掲載された。

2008年

2月

05日

カメラマンの町だった

3年ほど前の事になるが、吉原写真館の先代撮影の写真を見て頂くため恵比寿にある東京写真美術館の専門調査員・金子隆一氏を訪ねた。金子氏は写真の造詣が深いのはもちろん写真史にも詳しい方である。ちょうど、新潟を代表する写真家の「堺時雄」の関係資料の整理に追われているということだった。そんなことから話は弾み、新潟は優れた写真家を数多く排出していること、日本で一番多くの乾板(フィルム以前の感光板)が残存しているのではという話を聞き心躍る。また日本写真会新発田支部は日本においても早期に創設され活動も意欲的なことが知られているのだともいう。私は尋ねみた。新発田には優れた芸術作品多数残っているので、芸術を使った町活性化はいかに、と。金子氏は、可能性は十分あるどころか、元々、新発田は芸術都市だったと力強く答えた。この連載を始めた建築写真家・大竹静市郎氏のような芸術家たちが新発田で生まれ育ったのは、実は必然だったのをこの時初めて知った。

*日本写真会新発田支部の撮影会の時のものである。右から二番目が父である。カメラもファッションも固有の美学に満ちている。

この文章は、2008年2月5日新潟日報_想い出写真手帳_吉原写真館編に掲載された。



2008年

2月

02日

光と其の階調

すっかり野良犬を見なくなった。私が小学生だったころは、野良犬と出くわすことがあった。走って逃げたいのを我慢して、そろそろと通り抜けてため息をついたこともあるが、焦って走ってしまって、しこたま追いかけられて泣いたこともある。

この写真、どこにでもあったような小路の風景は、父が撮影したものなので新発田近郊だと思うが、どこだかわからない。

が、なぜか一人で歩いたことがあるような気にもなる。この柔らかい質感は日本写真会の特徴を表していると思う。なぜならば、「日本写真会は、諧調を大事にしている」ということを繰り返した父の言葉を、深いところで覚えているからだ。同会の創始者は、資生堂の創始者・福原有信の三男・信三である。信三は、若いとき、画家を目指してパリに留学していた。信三の著書『光と其階調』では「写真芸術は自然を端的に表現する俳句の境地に近い」とする主張を展開し写真界に大きな影響を与えた。パリで印象派の影響を直接受けたからだろう。父の写真が印象派の流れにあると思うと楽しくもなる。

*犬は怖いものだと思っていたが、自分で飼うようになってからすっかり気持ちがわった。光に浮かぶ、写真の中の犬の気持ちが分かるような気さえする。

この文章は、2008年2月2日新潟日報_想い出写真手帳_吉原写真館編に掲載された。

2008年

2月

01日

何も変わっていない

明治3年(1870年)ころというから文明開化の音がしただろう。
初代・秀齋は三条寺町にて漢方医のかたわら、今で言う写真スタジオ「真写堂」を始めた。明治23年(1890年)二代目・玄琳は、新発田の現在地の大手町2丁目に越し「吉原写真館」と屋号を変える。三代目・長平の軌道に乗ったが、昭和十年(1935)年、新発田町(当時)の約3分の1を焼き尽くす大火があり、全焼した。翌11年、四代目秀長によって再建されたのが、現在の建物だ。木造三階建ては大変にモダンで珍しいものだったとも聞く。建物はほとんど変わらず、当時のままで今でも立っている。

前列右から3番目にいるのが祖父・秀長、四代目。この写真を見ても、誰か分からない人の方が多い。私はここに住んでいるのに。「この人は誰?」。母に聞くと、「誰々の親戚で・・・」「そうそう、その人は今はね」とりとめもなく、話に夢中になる。その目を見ると、私の知らない世界と繋がっているのがわかる。吉原写真館、この町・新発田には、私の知らない想い出が幾重にも集積されている。

*ちょっと古くて、昭和25年頃の撮影。
アラベスクの床がいまの新鮮な洗面所、天がうんと高いスタジオなど、昭和のモダンがあふれている。

*この文章は、2008年2月1日新潟日報_想い出写真手帳_吉原写真館編に掲載された。

2008年

1月

31日

英雄・豊山が帰ってきた

*郷土の英雄・豊山が、凱旋したさいに、父が撮影した1枚。  昭和39年と思われる。
*郷土の英雄・豊山が、凱旋したさいに、父が撮影した1枚。 昭和39年と思われる。

茶の間に鎮座するテレビは、当時小学生の私にとって、自分の行動範囲を遙かに超えた世界とつないでくれるマジカルなウィンドウだった。学校から帰ると必ず茶の間に行き、テレビの前に座り、チャンネルを「5」に合わせてからスイッチを入れた。

民放はBSNだけだったから「5」といえば通じたのだ。ブラウン管の光が揺らめきヒーローである「8マン」が現れる。と、祖父がテレビの見過ぎは目によくないとからとかいい、するりと「8 (NHK) 」にする。物静かな祖父だったが、立ち会いが始まると隣にいてわかるくらいに集中力を高め行司の「のこった、のこった」に共鳴するように“ハッ”と気合いを入れた。

そういえば、祖父はスタジオで写真を撮影する瞬も、“ハッ”とか気合いを入れてシャッターを切っていた。そして、新発田市五十公野出身、郷土の英雄、大関豊山が登場すると、いつのまにか家中の者が茶の間に集まり固唾をのんでいた。行司の掛け声、歓喜、ため息。走査線が作り上げる力士の動く図像と一緒になって記憶の中で振動する。私にとっての大関豊山は、ブラウン管をぐっと見入る祖父の記憶なのだ。

 

 

この文章は、2008年1月31日新潟日報_想い出写真手帳_吉原写真館編に掲載された。

 

2007年

10月

13日

新川史眼

映像作品タイトル         静田神社
映像作品タイトル         静田神社

二年前の三月、私は中之島町(現長岡市)を旅していた。新発田から中之島まで車で2時間、日帰りの旅にはちょうど良い距離だ。

本家の菩提寺である専正寺、墓、中之島図書館を回り、夕方には大河津分水資料館にたどりつき、信濃川沿いにある碑をしばらくの間、見つめていた。吉原家の本家の義雄が大河津分水工事の推進、信濃川や刈谷田川回収に私財を投じて尽くしていた事実を、
図書館にあった中之島村史で知っていたからだ。

実は、前年の夏に中之島を訪れる予定だった。しかし、七月十三日の大洪水により、翌年の平成十七年まで延期せざる得なかった。テレビ放映される洪水の中之島、泥水が民家を襲う光景をよく覚えている。その時点では、先祖が分水工事にかかわっていたとは知らなかった。しかし、この中之島への一日の旅を終えた後、川や田を見つめる自分の視線が変化しているのに気がついた。

新潟市の新川は、大学に通う途中何度か通りすぎたことがあるが、いつみても茶褐色であること、水の流れが一定でないことが少し気になったくらいだ。しかし何ヶ月か前、新聞を通して、人工のものであることを初めて知った。川と言えば、山や大地にたまった水の流れが作る海への道のおとを言うと思っていた。新川は、川と名付けられてはいるが、本来の意味の川ではなく、人工的に掘削された放水路だったのだ。私はその事実を知ったとき、二年前の中之島への旅を思い出した。

感動という言葉がある。日常的に使われているとは言えないが、
誰もが使ったことがあるはずだ。ある映画を見て感動したとか、ある絵を見て感動したとか、ある風景を見て感動したとか、、、。感動する対象は、作品だったり、自然の風景だったりする。随分前、学生だったころ、この”感動”という言葉が引っかかり、考え巡らしたことがある。その時は、英語の辞書にある受身形動詞、be moved, be touched, be impressed,を知って妙に納得した。感動とは、能動的に動くのではなくて、対象の美などに”動かされること”という受け身なのだと。

私が何かを撮影するときは、やはり何かに感動したときである。その風景の美などに動かされて自然にシャッターを切る。その特別な場所と時間、その時の雰囲気を忘れたくなくて、あるいは後でゆっくりと反芻したくて、また親しい友人や肉親に見せたいと思って撮影する。

記録したい、
記憶したい、
忘れたくない、
伝えたい、
残したい、

撮影の理由、作品制作の心理は興味深い。美の基準は、人それぞれである。人によっては秩序ある自然の風景を崇める。
しかし、私の場合、人工的に作られた都市の美や朽ち果てそうなコンクリートの残骸、放水路のよどみ、ときには渦巻く水の動きに美しさを感じる。人が自然と闘った痕跡が想像力をかき立てるからだろう。

新潟市西区を流れる新川は、何の変哲のない流れのようだが、多くの人の力と汗によって掘られた人工の川である。その成り立ちに惹かれて、「新川史眼」と題する映像を作った。作品は、映像インスタレーションとして10月13日から始まる新潟大学の地域活性化プロジェクト「西区DEアート」で展示される。私は、この作品を十八人の鑑真はじめ、五十二の村々、二百万人近い労働者、また現在、新川の歴史を未来に伝えようとしている方がに捧げる。

※西区DEアート
新潟大学教育学部人間科学部芸術環境講座の教員、学生たちが地域活性化を目指して16日間、さまざまなイベントを繰り広げた。
この文章は2007年10月13日新潟日報文化欄に掲載された。

2006年

11月

18日

ハワイの家族

2005年9月、初老の紳士H氏が、一枚の写真を持って写真館に現れた。千葉から来たという。その写真は、当館・先代の吉原長平が、今から100年程前、ここで撮影したものだった。

H氏の祖祖父にあたる源一郎(仮)氏は、当時、新発田に住んでいたが、次男坊 ということもあり、政府の計画したハワイ、サトウキビ畑への出稼ぎの話に飛びつき、家族を新発田において一人旅立った。残る家族 には、“仕送り”と“必ず帰る”という約束をして。最初の頃は、手紙等で、 連絡を取り合ったが、いつしか、連絡は途絶えてしまった。新発田で待つ家族は、数年は、源一郎氏の安否を気遣った。

数年後のある日、ハワイから帰った源一郎氏の友人から消息を知る。源一郎氏は、ハワイで結婚、家族と暮らしているというのだ。新発田に残った家族は、心配して 待っていた自分らが、あまりにも愚かに思え、その感情は、裏切られた 恨みへと変わって行ったという。そんな事情もあって、H氏の家 族の間で、源一郎氏は悪者として伝えられていたという。

時移り、H氏の甥である敏夫(仮)氏は、まるで祖祖父の魂に導かれるよう に自s分のルーツを調べ続け、ついにはハワイ大学に留学し、源一郎氏 のハワイの家族を突き止める。そして仏壇に置かれてあった一枚の写真 を発見する。それが、ここ新発田で撮影した家族写真である。また、源一 郎氏は床に伏せりながらも、新発田に残した家族の事を気にかけていたという話を源一郎氏のハワイの娘から聞く事になる。

その後、甥御は、仏壇にあった写真をもって日本に帰国。叔父のH氏と共に、源一郎氏 の育った町新発田を訪れた。そして、その写真を撮影した写真館(当館)を偶然 発見。少し驚き、また感動し門をたたいたというのだ。

 2ヶ月後の2005年11月、H氏は、源一郎氏のハワイの家 族2人を日本に招待した。再び家族写真を撮影するためだった。

2006年

9月

17日

大杉栄の写真

「僕が五つの時に、父と母とは三人の子供をかかえて、越後の新発田に転任させられた。父はこの新発田にその後十四、五年もくすぶってしまった。僕も十五までそこで育った。
したがって僕の故郷というのはほとんどこの新発田であり、そして僕の思いでもほとんどが新発田に始まるのだ」大杉栄『自叙伝』の、新発田人にとってはとりわけ有名な一節である。

明治二十二年十二月、大杉栄は父・東の転任(近衛連隊から新発田十六聯隊)により新発田にやってきている。当時の新発田は、明治十七年に設置された十六聯隊があり、軍都として栄えていた。同時期、明治二十二年に、二代目吉原玄琳50歳は、長男長平と妻・ツイを連れて、南蒲原郡三条・寺町から北蒲原郡新発田町西ヶ輪に越してきている。当時、玄琳は、三条寺町にて診療所を営みながら、新真堂(写真館)も経営していたが、不幸にも二度の火事に見舞われている。
西ヶ輪は、現在の通称自衛隊通りあたりで、十六聯隊駐屯地から目と鼻の先にあった。玄琳は、当時軍都として栄えていた田園都市新発田にビジネスのチャンスを求めて越してきたと思われる。その時、屋号も『真写堂』から『吉原写真館』とした。当時、十六聯隊では、写真が必要だったこともあり、吉原写真館は軌道に乗っていった。

以上の事を調べたとき、十六聯隊歩兵中尉での大杉東の息子、栄は、『吉原写真館』で撮影をしていただろうと確信した。しかし、残念ながら『吉原写真館』には、一部の吉原家の写真以外は昭和十年の新発田大火のため残っていないだろうとあきらめていた。

その後、平成18年9月16日18時ころ、高校の恩師であり、『大杉栄と明治の新発田_自由な空』の著者である荻野先生から電話がある。大杉栄の甥である豊氏が講演会のために新発田に来ており、吉原写真館で撮影した大杉栄の写真を持っているというのだ。翌日、私は大杉豊氏から、祖祖父・長平が撮影した、幼少期の大杉栄の写真を受け取った。添付した右端の少年が大杉栄である。

2005年

6月

01日

乾板発見

写真館の奥に母屋があり、奥に土蔵がある。二階建てなので、それなりに立派ではあるが、中に入っているのは、取るに足らないモノが多い。祖母が旅先で購入した人形細工、使わなくたった家具。私が高校生の頃、北海道・小樽で購入したガラスのランプなど。宝物を保存してあるというよりは、日用雑貨等、使わなくなったモノをいれる倉庫と化している。子供の頃、戦争の時に誰々が使っていたとかいう刀を発見したことがあった。ずっしりとした感じ、サヤから抜いたときのゾクとした感じは、良く覚えている。その刀は、結局、親戚の誰々のを預かっていたとかで、父がその人に返してしまった。言わなければ良かったと後悔したこともうっすらと覚えている。

二年前帰省したときに、土蔵の奧に眠っていた箱入りのガラス乾板(九〇〇枚程)を偶然発見した。本当の事を言うと、過去に一度以上は箱を開けて見た記憶がある。時が熟していなかったのか、何も感ずることもなしに、“なんだ、ガラス乾板か”という感じで、すぐに蓋を閉めて元の場所に戻し放っておいた。*ガラス乾板とは写真乳剤を塗布したガラス板で、ネガフィルムが作られる前に使われていたものだ。
普通は珍しいモノかもしれないが、現像液や酢酸の臭いのする家で育ち、道具箱から盗み出したピカピカのノミで水に浸したガラス乾板の映像皮膜をそぎ落として遊んでいた私には、これといって特別なモノではなかった。しかし、その日はどういうわけか一箱を土蔵から持ち出し、自分の部屋でじっくりと観察した。蛍光灯に透かすと反転した図像の闇の部分に銀が滲み出て鈍く光っていた。実像を見たいという衝動に多少かられたが、ガラス乾板をプリントするのは簡単なことではないことはすぐに予想できた。再び箱に戻し、普段仕事をしている机の隅に置いておいた。 

暫くしたある日、その箱を開けて一枚のガラス乾板を取り出し、仕事の都合上購入した新品の透過原稿スキャナーの受光面に丁寧にのせた。最新の透過原稿スキャナーならば、
画像を取り込めるのではと思いついたのだ。フォトショップを起動して、画像取り込みのボタンをクリックした。
スキャナー独特の稼動音が小刻みに響き、今は亡き祖父の図像が液晶モニターに少しずつ浮かび上がった。まるで死者に見つめられているような衝撃、その時の畏れの感覚を一生忘れないだろう。

この続きは、「風の旅人25号」を読んで欲しい。

※ガラスまたは合成樹脂などの透明な板に写真乳剤を塗布した感光材料で、フィルム以前に使われていた。乾板が使われた時代はとても長い。写真、カメラの歴史は、1839年フランスのL=J=M・ダゲールが開発・実用化ところに始まるとされる。写真は現在までで、168年の歴史があるということになる。明治16年5月6日(1883年)、写真師・江崎礼二が乾板を使って飛んでいるハト撮影に成功して以来、1975年、私が中学校の頃まで使っていたような記憶がある。そうなると約92年間は、世界で使われていたことになる。その後、乾板からモノクロフィルムの時代、カラーフィルムの時代を通り過ぎ、デジタルの時代へと変わってゆく。

2005年

3月

11日

渋谷の江崎フォトスタジオ

江崎礼二の墓に、祖父・秀長と祖祖父・長平の名前を発見してから、暇があれば礼二の事を調べた。出身地とあって、岐阜県図書館のHPが詳しい。そこで使われている江崎礼二肖像の写真には、子孫と予測できる江崎信男所蔵と書いてある。当然ながら、信男氏に会いたいと自然に思うようになった。

インターネットで、”江崎信男”で検索すると、すぐにヒットした。江崎フォトスタジオ。何度か訪れたことがある渋谷宮益坂の郵便局の近くにあった。このときほど、インターネット検索をありがたいと思ったことはなかった。 

江崎フォトスタジオの電話番号も表記してあったので、すぐに電話しようと思ったが、はやる気持ちを抑えて、江崎フォトスタジオの事を父に聞いてみることにした。考えてみれば、この事は、父には何も聞いていない。職人肌の父は無口で、あまり昔の事は話さないが、質問をすると静かに答えてくれる。なんと父は、東京写真専門学校時代、江崎礼二の息子である江崎三郎に習っていたというのだ。また、渋谷にある渋谷の江崎フォトスタジオに修行に行っていたとも言う。

その日の夕方、江崎フォトスタジオに電話をかけた。しかし、呼び出し音は鳴るのだが、誰もでない。日を置いてかけた何度目かの電話で初めて繋がった。電話先の人は、江崎信男氏。自分のこと、新発田の吉原写真館の名をだすと、すぐに話が通じた。そして、奇しくも私が乾板を発見した少し前の平成16年5月末、100年以上の歴史を持つ江崎写真館は閉じていることを知った。一週間後、渋谷の江崎フォトスタジオで、江崎信男氏と対面した。

 

※江崎礼二の墓

2005年

3月

10日

江崎礼二の墓

祖父の古いアルバムと同じ場所で、一枚のメモ書きを見つけた。”吉原玄琳、吉原長平、江崎礼二に師事。吉原秀長、江崎清に師事”と書いてあった。祖父・秀長の字、なんのために書いたのか?

江崎礼二の事を調べると、乾板を使った”早撮り写真師”として評価されている。また浅草十二階(凌雲閣)を作ったプロデューサーであることも知った。

 

http://www.library.pref.gifu.jp/d_lib/predec04.htm

さらに江崎礼二の墓が、谷中霊園にあることを突き止めたら
居ても立ってもいられず、谷中霊園へ墓参りに行くことにする。

谷中霊園は、綺麗に整備されていて墓の地図も用意されているため、江崎礼二の墓は簡単に見つかった。用意した花を供えながらも、落ち着かない。墓石の横側には、江崎礼二の業績が刻まれていた。大きめの灯籠がり表に”二八の会”と刻んである。その裏側には、会員と思われる名前が刻んであるのを見つけた。一瞬、震えが走った。祖父・吉原英長(秀長)と祖祖父・吉原長平の名前が刻んであったからだ。

2004年

12月

14日

山路ふみ子の写真

土蔵には、父のアルバムが何冊か保存してある。その中でも、1942年(昭和17年)〜1944年(昭和19年)のアルバムが興味深い。

この時期、父は、東京・大森の叔母の家に下宿して東京写真専門学校で勉強していた。ちょうど第二次世界大戦に重なる。アルバムを見ると、モデルの撮影をしている写真の他、富士の梨ヶ原での軍事演習の様子、分隊の共同生活などが、丁寧に貼ってある。その中で、少し異質な美しい輝きを放っている女性の肖像写真がある。そこには直筆のサインで、山路ふみ子とある。

その写真の隣には、縁側に座る4人のスナップ写真。その中の1人は学生服を着た二十歳の父、少しにやけている。その隣に座っているのが山路ふみ子。そして彼女の母親と女中と思われる人物が並んでいる。

父に、その女性のことを尋ねてみた。1人軽井沢に風景写真を撮影するために出かけた時に、偶然にも山路ふみ子の別荘地に迷い込み、庭仕事をしている彼女と出会ったのだそうだ。彼女は、大女優にも関わらず、実に気さくに話しかけてくれ、その後、何度となく、モデルの役を務めてくれたという。実際に、アルバムに使われた原板、フィルムが数枚残っている。父も実家のある新潟県新発田からお米を届けたり、数年間、懇意にお付き合いをしていただいたという。

その後、山路ふみ子は、戦前を代表する大女優であることを知った。また、私財を投じて専門看護教育研究助成基金を設立したり、映画賞を作ったりと日本の文化を育てるために、惜しみない努力を続けてきた人であることも知った。しかし、同時期平成 16年12月14日、山路ふみこ死去の記事も発見することになる。

2012年

10月

06日

街角こんぱす連載

新潟県新発田市を中心に、37000部発行しているフリーペーパー街角こんぱす」の連載の

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